2010年12月9日木曜日
多摩美中沢ゼミ参加について
2010年9月9日木曜日
1回目は「ファウンドフォト」にしたいと思っています。ファウンドフォトという発想は最近現代美術の領域で盛んに使われています。かつてダレかに撮られ、そして忘れられてしまった写真、あるいは作者匿名(アノニマス)な写真を再び積極的に利用する。それは作家性を疑うなど色々な政治性を含んだ技法だと思います。止まった時間を今と接続することによって生き生きとした時間を取りもどすアイデアを考えてください。でも別にまとまった作品を望んではいません。未完成のアイデアだけで構いません。それらを元にみんなで議論しましょう。来週の授業までにこのブログにアップするか授業にもってきてください。スライドショーにして音楽をつけてもらってもいいし、プリントのままでもかまいません。以下3つ作品を紹介しておきます。
5歳から7歳くらいに撮られた家族のスナップ写真を元に大人になった自分がその頃の自分を演じてみる。オカしいですが、それだけじゃなく時間というものを考えさせられる味わい深い作品だと思います。
2010年9月8日水曜日
2010年7月27日火曜日
ペドロ・コスタ特別講座
2010年7月13日火曜日
ゴダールの宣言
十月革命から五十年後の今日、アメリカ映画が世界中の映画を支配している。こ事態に対してつけ加えて言うべきことは大 してない。ただし、次のことは言っておかなければあらない。それは、われわれもまた、自分たちのささやかなレベルにおいて、ハリウッド=チネチッタ=モス フィルム=パインウッド等々の巨大な帝国のまっただなかに二つないし三つのベトナムをつくり出さなければならない、そして経済的にも美学的にも、つまり二 つの戦線に立って闘いながら、国民的で自由で、兄弟であり、同志であり友であるような映画をつくり出さなければならないということである。
1967 年「中国女」のプレスブックより
2010年7月2日金曜日
7/6 東京都写真美術館
当日集合時にチケットを配りますから映画鑑賞は後日そのチケットの半券を使うこととしたらよいでしょう。
なお当日写真展を見たあと、7時くらいまでをめどに、館内に教室を移動した格好でいつもの話し合いをすることになります。(柳本)
2010年6月29日火曜日
メカスのサイトと来週の古屋展
東京都写真美術館の古屋誠一展
http://syabi.com/contents/exhibition/index-18.html
70年代よりオーストリアのグラーツ住み活動する古屋誠一
85年に飛び降り自殺した妻クリスティーヌさんの写真を
それ以降繰り返し再編集して写真集や写真展を行う古屋さんの集大成展
古屋さんはオーストリアのカメラオーストリアという写真雑誌の編集キューレションにも
関わっている人です
来週の授業7月6日火曜午後5時写真美術館展示室ホール集合です
今日の授業のこと
「ミツバチの羽音と地球の回転」を発表してくれた中嶋くんの問題意識も
政治的でオーソドックスなドキュメンタリーもメカスのような美学のドキュメンタリーも
一緒に考えられると思うと発言したたかくらくんも
青木さんの芸術を言葉で説明することの難しさについての議論も
凄く重要だと思いました。
それらのことについて答えは簡単には出ないと思いますが諦めずに考え続けること大切だと思います
ホンマタカシ
2010年6月19日土曜日
「ハーツ」でした。
「ハーツ・アンド・マインズ-ベトナム戦争の真実」(1974年、ピーター・ディヴィス監督)
「ウィンター・ソルジャー-ベトナム帰還兵の告白(1972年、企画に賛同した17人の映画人グループの制作)
です。いま、東京都写真美術館で上映中です。「地獄の黙示録」などの映画制作に影響を与えたとされているのだそうです。
2010年6月18日金曜日
「ザ・コーブ」についての議論
ブログ読者のそわさんからコメントがありました。改めて投稿しておきます。諏訪
曽和です。「ザ・コーブ」僕も観ました。
僕は和歌山出身ということもあり、自分は鯨を喰う人間であるとの自負のようなものを持っております。
先週も鯨肉を自分で料理して、喰いました。
ですから、鯨を喰う人間の視点から、あの映画を観たわけです。
中立な視点では観られない。
ドキュメントと呼ぶのも憚られるほどに、極端に一方的な視点で物語化されたその内容に、初めは笑ってしまいました。
コメディー映画かと思いました。
しかし、観続けているうちに、次第にこれは笑ってられないぞという気持ちになってきました。
授業でも言われていたように、完全に客観的(つまり物語化されない〉ドキュメンタリーというものはありません。
が、僕には、この映画が宣伝しようとするメッセージは、あまりにも大仕掛けで幼稚なものに見えました。皆さんも、恐らく似たような感想を抱いたでしょう。
この物語に乗せられる人なんて、ほとんどいないんじゃないのと思うんです。
ところがどっこい多くのアメリカ人は、「少しの嘘は混じっているかもしれないが、半分以上は真実である」と信じて観ておるわけです。(つまり、それは虚と実が未分化に了解されている時点で、“ほぼ”真実になるわけですが〉
確かに、比較できる複数の視点がなければ、“相対”的に判断することが出来ないのは当然なのかもしれません。
一方的な視点からの情報しか知らなければ、それは“絶対”になるのです。
それがプロパカンダです。
思えば、「笑い」というのは、ボケとツッコミという二つの視点が衝突して起こることにおいて相対的といえます。(この二つが結託して“絶対”を作り出す場合もありますが)
ですから、笑えなくなるということは、“絶対”が支配しているということです。
この「ザ・コーブ」は、ツッコんで笑いにして(相対化して)、解毒するよりない。
そうせずに飲み込むのは危険な代物です。(ザ・コーブっていう名前の内服薬ありそうですけどね。)
授業では複数の生徒から、反対の太地町側の視点からの情報も欲しいという意見が見られました。
つまり、複数の視点からの情報をみてみた上で、相対化したいということであると思います。
あの映画だけ観ても、相対化の拠り所が持ちにくいわけですね。
映画と自分との間に確かに距離を感じるんだけども、その距離が測りにくい。
受け入れがたいものである事は分かれども、自分とどう関係があるのか。
多くの生徒は一応は(鯨を捕食する)日本人の立場から観たのでしょうし、その絶対的表現に拒絶反応を感じたでしょう。
しかし、自分が「当事者」とどの程度の距離で、立ち位置で、関係しているのかが分かりにくいんですよね。
ああいう表現は、見てる側に「君はどっちサイドなの?」という迫り方をしてくるように感じるんですよ。
「自分は、鯨を喰う側の人間なのか?」って考えても、もしかしたらイエスかノーかで答えられるものでもないかもしれないんですよね。
かといって、無視できるものでもない。
授業の終盤で、諏訪先生が提出された問いは、とても今日的なものだと思います。
ジャーナルとドキュメントとは違うということ。
ドキュメンタリーは主観にしかならないということ。
見る側も、見せる側も中立ではないということ。
僕たちは、文脈(物語)の中に生きてしまっているということ。
僕たちは、様々な物語の中で生きています。
色んな穴から、色んな物語が入ってきている。多孔なものなのです。
または、無数のチューブから物語を注入されることで、養分を得ているものなのです。
そして、「食」というテーマは、それらの交差にあるものです。
つまり、「食」に関しては「当事者」にならざるを得ない。
ウンコして、「これは自分が食ったものではありません。」とは言えない。
自分が当事者であると認識したときに、人は物語と分かち難い存在になるのかもしれません。
客観性の王座から、引きずり降ろされた盲目のオイディプスのように。
六ヶ所村ラプソディー
2010年6月7日月曜日
かもめ食堂
投稿が遅くなってしまったのですが、映画「かもめ食堂」を紹介します。
フィンランドで日本食のお店を営む、お話です。
なので、食事をするシーンや食事を作るシーンが、たくさん出てきます。
http://www.youtube.com/watch?v=57mGwsGiXys&feature=related
↑ 2:50 の、おにぎりを食べるシーンは、しみじみとリアリティを感じます。
激しい質のリアリティとは違う感じ。
映像によって記憶が呼び起こされます。一緒に食べてる気分。
食べてる食べ物が、日本食だからよりリアリティを感じるのかも。
2010年6月3日木曜日
ウォーキングの報告
1日は学部の授業で新宿―東京タワー間を歩きました。
学生は午前の授業を終えてからですので集合時間は13時50分。(50分と細かい指定は、何とかの法則とかいうのによりますが、これは1時半とか2時というような時間の指定の場合、人には弛緩した記憶としか残らないのだそうで、1時25分というようになぜ?と思わせる指定をすると遅刻者は激減する、というアメリカの何とか大学の教授の研究によるものだそうです。研究の中身は知りませんが、本当にそうすることによって校外で集まる時の学生の遅刻率は激減しました。当日も5分以内の遅刻者は一人で、他19名は時間前に集まりました。不思議です。)
で、残り時間を考えて全員電車で神保町まで移動。そこから歩き始めて、小川町、神田駅、日本橋、銀座、新橋、虎ノ門、芝公園を通過して4時30分にタワーに到着することを指示してスタートしました。
結果は、4時20分到着が私。35分が4名。50分が6名。5時が4名。5時が3名。5時10分が1名。他1名は脱落。順次展望台にのぼって、暮れなずむ東京を遠望しました。
途中、銀座通過時にほとんどの学生がMACのショールームで例の製品に触った模様。曰く、「いらない」「格好よくない」「絶対にすぐ壊す」「電車内で使っている姿を想像すると幻滅」。
参考データ:歩行距離18キロ、所要時間2時間。歩数約25000歩。
学生も、結構歩けるものだと納得していました。ちなみに当日は2名が男子、残りは女子。元気なものです。以上レポートまで。(柳本)
2010年6月1日火曜日
恋人たちの食卓 = 飮食男女
2010年5月31日月曜日
「食べる映像」中嶋編
中嶋です。印象に残った「食べる映像」を紹介します。
http://www.youtube.com/watch?v=B8SZGBnEgWw
『Survive Style 5+』
『Beastie Boys "Body Moviin"』
もちろんこの前の石森くんの紹介してくれたペリカンがハトを食べる衝撃映像はリアリティあったと思います。でもじゃあ例えば殺人現場の映像を観てそれがリアリティあるっていうのは当たり前過ぎると思うんです。ボクも含めてみなさん専門は違っても芸術的に物を創造する立場になると思うんです。そこでやはり映画など作られた映像の中からよりリアリティを感じるとかアクチャアリテイを感じるとかの議論をしたく思っています もちろんアニメ大歓迎です。出来れば今からでもyoutubeで観れる映像をこのブログにアップしてもらうかあるいは授業でみんなで観れるようにDVDとかを持ってきてもらいたいと思います。もちろんペリカンのような映像でもちゃんと議論の対象になるのであれば大歓迎です。一緒に授業を作っていきましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=eZOpHeqL6Ws
家族ゲーム 森田芳光監督
2010年5月30日日曜日
写真をあげてみてはどうですか。
写真には映画ほど食事の光景は写されていませんが、お話の文脈から断ち切られた光景としての写真からあげてみてはどうですか。
私はロバート・フランクの写真集「アメリカ人」の中の、カウンタにーずらっと並んで短い昼食時間にかきこんでいるデトロイトの自動車工場の労働者たちと思しき人たちの食事光景が切なくて忘れられません。
高梨豊さんの「東京人」にもゴダールの映画のポスターを背にして一人カウンターで食事する(たぶんカレーライス。そこの店にはカレーライスとナポリタン・スパゲッティしかなかったですから。新宿駅中央口を出て階段を上がって外に出てすぐのところにありました)光景を撮った写真もしかり。
写真をお見せしたいところですが、著作権に抵触しますから控えます。いや、著作権の問題はそれとしても、図書館にありますから現物を見てもらったほうがいいと思います。ここで見るのはあくまでも会話のインデックス代わりにとしておかないと、リアリティーをバーチャルに受け止める術ばかりが成長するようで気がかりです。
追記:今週は雨でなければ学部の学生とストリート・ウォーキングに出かけます。出会い頭のリアリティを求めて新宿から東京タワーまで歩きます。恒例行事?ですが、梅雨が近そうなので今週に実施。そういう次第で今週は大学に戻れなく出られませんのであしからず。(柳本)
2010年5月29日土曜日
前回の講義で紹介した動画のリンクを張ります。
大学院二年の石森です。
前回、僕が紹介した映像のリンクを貼っておきます。
『Pelican eats bird』
『"Let's Go Justin!" - EVO 2009 SFIV Grand Finals Justin Wong Vs Daigo
Umehara』
『切れすぎておかしくなった少年修羅パンツPart1[和訳字幕あり]』
『Marshmallow test』
おいしそうなカツ丼
真っ暗なみやげもの屋のガラスをのぞきながら、私はまだ開いているめし屋の明かりを見つけた。すりガラスの戸をのぞきこむと、カウンターだけで、客は1人しかいなかったので、私は安心して引き戸を開けて入った。
何か思い切り重いものが食べたくて、
「カツ丼を下さい。」
と私は言った。
「カツからあげるから、少し時間がかかるけどいいかい。」
と店のおじさんが言った。私はうなずいて、白木の匂いがするその新しい店は、手のゆきとどいた感じのいい雰囲気だった。こういうところはたいていおいしい。
(中略)
やがてカツ丼が来た。
私は気をとり直して箸を割った。腹がへっては・・・、と思うことにしたのだ。外観も異様においしそうだったが、食べてみると、これはすごい。すごいおいしさだった。
「おじさん、これおいしいですね!」
思わず大声で私が言うと、
「そうだろ。」
とおじさんは得意そうに笑った。
いかに飢えていたとはいえ、私はプロだ。このカツ丼はほとんどめぐりあい、と言ってもいいような腕前だと思った。カツの肉の質といい、だしの味といい、玉子と玉ねぎの煮えぐあいといい、固めにたいたごはんの米といい、非のうちどころがない。そう言えば昼間先生が、本当は使いたかったのよね、とここのうわさをしていたのを思い出して、私は運がいいと思った。ああ、雄一がここにいたら、と思った瞬間に私は衝動で言ってしまった。
「おじさん、これ持ちかえりできる?もうひとつ、作ってくれませんか。」
そして、店を出た私は、真夜中近くに満腹で、カツ丼のまだ熱いみやげ用パックを持ち途方にくれてひとりで道に立ちつくすはめになってしまった。
(中略)
「カツ丼の出前にきたの。」私は言った。「わかる?ひとりで食べたらずるいくらい、おいしいカツ丼だったの。」
そして、リュックの中からカツ丼のパックを取りだした。
蛍光灯の明かりが青いたたみを照らしていた。TVの低い音が流れている。ふとんは、今雄一が出てきた形のままストップしていた。
(中略)
「雄一、本当はもう帰りたくないんでしょう?今までの変な人生のすべてと訣別して、やり直すつもりなのね。うそをついてもだめ。私は、知っている。」言葉は絶望を語っているのに、不思議と落着いていた。「でも今は、とにかくカツ丼よ。はい、食べて。」
青い沈黙は涙が出るほど息苦しくせまってきた。うしろめたい瞳をふせた雄一は、カツ丼をうけとる。生命を虫くいのようにむしばむその空気の中、予想もつかなかった何かが私たちを後押しした。
「みかげ、その手どうした?」
私のすり傷に気づいた雄一が言った。
「いいから、まだ少しでもあったかいうちに食べてみて。」
ほほえんで私は手のひらで示した。
まだ何となくふにおちない様子だったが、
「うん、おいしそうだね。」
と言って雄一はふたをあけ、さっきおじさんがていねいにつめてくれたカツ丼を食べはじめた。
(後略)
改めて読んでみると、カツ丼の描写はそれほどおいしさの想像をかき立てるようなものではないような気がするのですが、私の記憶の中ではカツ丼がおいしそう、という印象が強いです。
ストーリーの中でもカツ丼が大きな役割を果たしているので、そのせいもあるのかもしれません。
私は、主人公がお店で食べるカツ丼よりも、持ち帰り用パックに入ったカツ丼の方を想像します。
パックの白いフカフカした素材の様子、ふたを開けると内側に水蒸気がたまって水滴が付いている様子などが目に浮かびます。
食事の場面が印象的(おいしそう)な映画
2010年5月25日火曜日
リアリティーを感じる瞬間
私にとってリアリティーを感じる瞬間というのは日常の中でふとした瞬間に非日常的な違和感を感じたときです。
上の写真は家族で群馬の田舎にお墓参りをしに行ったときに撮った写真です。田舎の田園風景を背に、空に向かって携帯電話で何かを撮っている母親の姿に私は異様なインパクトを受けました。日常的に見慣れている母親の姿に珍しいものを目の当たりにしたようなリアリティーを感じ、思わずシャッターを切っていました。
これはその写真をもとにドローイングをしたものです。
私は普段制作している作品のモチーフとしても自分が実感を持てるものをモチーフとしていて、この写真は非常に私の制作意欲をくすぐるものでした。
これはうちのベランダから見える一軒挟んだ先さきにあるマンションの庭の風景です。
駐車場の奥にフェンスに囲われた空間に妙な違和感を感じ写真を撮りました。そこの空間はマンションの住民すら簡単には立ち入れないスペースで謎は深まるばかりでした。特に気になるのが手前に生えたシュロの木。なぜあんな所に生えているのか。庭の手入れは行き届いているようで、地面には美しく苔が生えています。
あとで聞いた話なのですが、明治、大正時代の家の庭にはよくシュロの木が植えられていたそうです。今ではシュロに毒があるとかでとんと見かけなくなっていた木だそうです。それを聞いたときピンときたのですが、あの空間は昔の家を取り壊してマンションを建てるときに庭だけとっておかれた空間なのではないでしょうか。このあたりの地域では一軒たてるごとに必ず庭をもうけて緑を絶やさなくして景観をよくする決まりがあってのことでしょう。
そう思うとあの違和感にも頷けます。なんせあそこの空間だけ明治時代から時が止まってしまっているのかもしれないのですから。
これは同じ場所で同じところを撮った写真ですが、前の写真とは少し違うところがあります。
シュロの木の奥に赤紫色の花が咲いています。
時間が止まっているような空間にも現在進行形で時が流れ季節を追うごとに変化していく。
こんなところにも私はリアリティーを感じました。
kani
2010年5月24日月曜日
私がリアリティーを感じる映像
映画「ジョゼと虎と魚たち」の中の朝食シーンです。
とにかくすごくおいしそうで、この場面を見ると同じように味噌汁とご飯と卵焼きという食事を作りたくなります。
味噌汁のお椀は多分プラスティックだろうな、とか、そのお椀が口に当たる感じとか、味噌汁の具のワカメのどろっとした食感とか、ご飯は固めなんじゃないか、とか想像します。
こんなにおいしそうに見えるには撮影とか、撮影現場でその食事を実際に用意する方法とか、技術的なものが大きいのかな、と思います。
俳優の演技はあまり関係ないと思います。
私は昔から文学でも映画でも食べ物がおいしそうに描かれている作品が好きなのですが、なぜ好きかという感覚をあえて言葉にすると 信頼感がある ということなのかな、と考えました。
小説では、吉本ばななの「満月」という小説のカツ丼がおいしそうです。
カツ丼そのものの描写自体はたいした事ないのですが、カツ丼を巡るシーンの描写全体としておいしそうな印象が私の中にすごく刷り込まれています。
と、ここまで「おいしそう」のキーワードで書いてきましたが、私にとって おいしそう=リアリティを感じる なのかというとちょっとずれるかなとも思えてきました。
おいしそうはおいしそう、というだけかもしれないです。
電車のなか
2010年5月23日日曜日
2010年5月22日土曜日
リアリティー&アクチュアリティーのその先
大学院二年の石森五朗です。
柳本先生のコメントを受けてもういちどリアリティーについて考えてみようと思います。
リアリティーとはそれだけでは存在せず、自分との関係から生まれるものと考えるのあれば自分の中にそのリアリティーに反応する何かがあるはず。
その何かとは多くの人が共通して持っているものもあれば、少数または自分だけしか持っていないものもある。普遍的か普遍的ではないか。大きな物語と小さな物語とも関係するかもしれないです。
今回、僕が紹介しようと思う映像は3種類(計4つ)あります。違う視点からリアリティーという事象を眺めてみようと思い3種類選びました。
ひとつめに僕にとって「リアリティー」のある映像
ふたつめにリアリティーを感じているであろう「人々」の映像
みっつめにアクチュアリティーが損なわれたであろう、もしくは満たされない「人々」の映像
この授業でわかってきた重要な『リアリティー(迫真性)』のキーワードに『違和』や『ズレ』という言葉、そして『アクチュアリティー(現実性)』という言葉が出てきました。
今回、発表する映像を踏まえ話し合うことにより、新しいキーワードが現れ、次につながる議論が出来ればいいのですが。
それではよろしくお願いします。
※事前に今回紹介する映像をこのブログに埋め込んだりリンクを張ることは、あえて避けようと思います。当日一緒に観ることが先入観もなく自然な形で話し合いができると思ったからです。講義終了後にこのブログにてリンクを張りたいと思っています。
2010年5月21日金曜日
2010年5月17日月曜日
2010年5月16日日曜日
家族の日記
私は最初、この写真集を見て、日常生活を切り取ったものという印象を受けました。
日常生活の写真に共感して「リアル」を感じたのかな、と思ったのですが、見ているうちに何かが違うという思いを持ちました。
この写真集は、癌で亡くなる奥さんの記録だったのです。
私はどうしても、作者のバックグランウンドやインタビューを受けて画面の表面を考えることが多いのですが、、その作者のバックグラウンドを知ることで、しっくりと来た部分があります。
二人の子供がすやすやと布団で寝ている写真。
自宅のベランダに干された洗濯物を、遠くから撮った写真。
奥さんのポートレート。
窓ガラスに貼りついた赤ちゃん、転がった奥さんのサンダルの写真。
それらの写真が、右下の年月日の数字の表記と共に、積み重なる生活を訴えてくるように思いました。
作者の方は、記録を続けることで、毎日を繋ぎとめたい思いがあったのではないかと思います。
そしてそれは私に、強いリアリティーを感じさせました。
同時に、日常の生活を考えるきっかけになる写真集でもあると思います。
2010年5月14日金曜日
スポーツを映像で見るならやっぱりTVだなーとこの映画を観て思いました。
TVでサッカーの試合を見たときの興奮がこの映画を観たときには感じなっかたのをおぼえています。それはTVで見たときと映画では、観戦している状況が違うという理由によるのかもしれませんが、私が気になったポイントは映画だと映像がよく見えすぎるという所です。TVの方が映像を観ているというよりは雰囲気を感じている要素が強いように思います。
個人的な感覚かもしれないけど、試合でシュートが入った時の驚きって、もちろん、やったーって要素が強いと思うのですが、そのうちの何パーセントかには、ボール運びが常態化していた、日常性みたいなのが壊された驚きがあるように思います。それで、ああこのスポーツはゴールにボールを入れるゲームだったなと確認するみたいな感じで不思議にリアルに感じることがあります。だからTVってぼーとしてたり、部分的にみてたりあまりちゃんと画面をみていなくてだから興奮もするように思います。
では、ジダンの映画はリアリティーが無いかというとそうではないようにも思います。むしろ映像的にはTVの何倍もリアリティーを感じます。だから映像として優れていて画面の全体がよく観れる感じがします。それで最後まで映像として観てしまうのですが、代わりにTVのような盲目性はないように思います。
2010年5月11日火曜日
本日の授業
今日の授業
リアリティ
僕にはファンタジックに演出しているように見えます。
「映像 リアル」で検索し、最上位に出た動画
3DCGだそうです。
その他、「映像 リアル」で検索した結果、上位から4件目に、
「衝撃映像 リアルすぎ! 少女射殺」
2009年9月21日 ... 世界中に衝撃!イランの首都テヘランで、十代の少女が胸部を銃で撃たれ死亡する映像
前回の授業で、リアリティとはリアルでないものへの感覚である。という議論がありました。前述のサイトでの「リアル過ぎ!」という表記は、リアルでないものへ向けているリアル(リアリティと同意味)のように見えます。しかしこの表記には何か違和感があります。
SONY BRAVIA (bouncy balls)
http://www.youtube.com/watch?v=2Bb8P7dfjVw
2010年5月10日月曜日
赤い風船
僕の「リアリティを感じる映像」は、『赤い風船』です。
「リアリティを感じる映像」と言われて、映画を観ているときによく「今のリアリティあるなあ」なんて思ったりするんですけど、あらためて思い出そうとすると意外に出てこなかったり、理由がうまく形にならなかったりして、とりあえずTSUTAYAで端からパッケージを見て回って、辿り着きました。
アルベール・ラモリスという監督の50年以上前に制作された短編映画で、2年前に国内でリバイバル上映されていて、そのときに観ました。
友達のいない少年と赤い風船との友情の物語。
ただそれだけの映画なんですが、とにかく風船が活写されていて、それこそ本当に生きているかのように自由に動き回ります。
比喩表現的な意味の「生きているよう」ではなくて、本当に命を持って生きているみたいに。最初は犬や猫の演技を見たときに近い驚きがありました。
それどころか、だんだんと風船の感情が伝わってきて、途中からはただの驚きが妙な現実感に変わっていく。「本当に風船は生きているんじゃないか」とまではいかなくても、「この風船は生きているかもしれない」までは思っていました、たぶん。これがここ10数年で撮影されたものならともかく、50年も前にあそこまで自然な映像を作る技術があるわけないと思い込んでいたからかもしれないけれど。
それがフィクションだとはわかっていても、その瞬間に僕は赤い風船にリアリティを感じてしまっていました。自分が人間以外のものにリアリティを感じ、感情移入をしたのは、後にも先にもこれだけです。
劇映画はありていに言えば「嘘」なので、自分にとって劇映画の「リアリティ」というものは、嘘である映画を現実世界の出来事に引き寄せる瞬間に感じられるものだと思います。それはファンタジーとかリアリズムとか関係なく。
その「リアリティ」にも、経験則からくるものと想像力からくるものがあると思うのだけれど、『赤い風船』に関しては後者のそれでした。
サイトの予告編でも、わずかながらその感覚は得られると思います→ 公式サイト(音流れます)
あと関係ないんですが、青山真治さん(と思われる人物)が、昨日フィクションについて面白いことを言っていたのでURL載せます。
twitter.com/cooff/status/13619664008
2010年5月9日日曜日
リアリティを感じる写真
私がリアリティを感じる写真は「秋葉原通り魔札事件」の報道写真として毎日新聞により撮影された、犯行直後の現場を上空から撮影したものです。
私はそれまで、実際に人がケガによって出血している現場と言うものを見たことが無く、仮に見たとしても小学生の時の鼻血や擦り傷からの出血程度の軽いものでした。ですので「ケガや傷でによる出血」というものを、映画やtvドラマ等を通してしか見たことが無く、アクション映画などで刀で斬り付けられ、大量に血しぶきが出るシーンや、大きなケガをおっての出血等についても特に疑問を持つことなく「これは虚構だから、おおげさにやっているんだ」と思って見ていました。逆算的に「現実に、同じようなケガをおったとしても、こんなに出血はしない」と意識はしていませんでしたが、そう考えていました。
ところが、この写真に写っている、犯人のナイフに刺された被害者の、アスファルトに流れる血液の量は、私の想像をはるかに超えたものでした。私は前述の通り、ナイフに刺された事よる出血の量と言うものは、映画などの影響から「刺された傷口から少しずつ、少しずつ血が流れ出る。決して大仰なものではない」と決め付けていたのです。恐らく、虚構の映像作品で同じ光景を見ていたら「血、出すぎじゃない?」「リアリティない」とまで思っていたかもしれません。私はこの写真をみて、自らの現実感のズレを自覚し、同時に自分の予想を遥かに超える現実の多様性の一端を見たような気がしました。
2010年5月8日土曜日
「まちの呼吸」
2010年5月6日木曜日
危機への備えや困難を克服しようとする意思を実現する方法として生み出されたものだからです。
身近なものへの関心は、遠方のものへの関心があってこそリアリティーにつつまれる。そのリアリティーが遠方のものをファンタジーとしてとらえさせる。つまりファンタジーというのはリアリティーを獲得するための知的技術のたとえとして誕生してきたものではなかったのかなあと、あてどなく、先日の授業時の皆さんの話を聞きながら思っていました。
そしてそのとき同時に、フランス人にしてアメリカで活躍したインダストリアルデザイナー、レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)の「口紅から機関車まで」という言葉が頭をよぎりました。文字通り、口紅のようなものから、流線形の機関車をデザインしたり、コンコルドの内装を手掛けたり、タバコのピースのパッケージも彼のデザインですが、その目線の広い角度をあらためて思い起こさせられたのです。
ローウィはまた消費者の中に潜む気持ちの流れにMost Advanced Yet Acceptableという段階を見出し、それを「MAYA段階」だとして、「新しいものの誘惑と未知のものに対する怖れ」との臨界点だと看破した才人でした。
その臨界点なることもあらためて意識してみたいなあと思いました。そんなことを思っていると唐突ながら、沖縄普天間の問題が、リアリティーとファンタジーを話題とする中で何の不自然さもなく登場してもいいのになとも。私たちの臨界点を覗き込んで見る必要もありそうだなと思ったものですから。(ま、私はこの連休中に、MAYA段階だったiPhone 3Gについて、これは要らないという結論、つまり未知に対する恐れを克服しきったのでスッキリしました。)柳本。