2011年5月23日月曜日

新しいサイト

「今の時代のニュードキュメンタリー」2011年度は新しいサイトに移行します。只今準備中です。

2011年2月15日火曜日

ニュードキュメンタリー最終報告

投稿が遅くなってしまい、大変申し訳ございません。

中嶋駿介です。

最早手遅れかもしれませんが、最終報告を投稿したいと思います。


この一年間を思い返してパッと出てくるものは、

1.リアルという言葉!
2.ダイアン・アーバスの写真!
3.笠智衆のタイムトラベル!
4.吉増剛造のお手製かわいい映画達!
5.ゲットーと同化せよ!ペドロ・コスタ!
6.セックス・・なし『ダブル・ブラインド』
7.どう俺の嫁!?『気狂いピエロ』

です。以上についてざっと自分なりに感想を述べていきたいと思います。


1.リアルという言葉
リアルという言葉はこの一年で何回口にしたか判らない程発した記憶があります。Ustreamに保存されている全授業の動画の中から「リアル」という言葉を見つけ、それをニューシネマパラダイスのラストのように編集するのはいかがでしょう?様々な「リアル」が飛び交い、きっとリアルな作品になると思います!

2.ダイアン・アーバスの写真
ダイアン・アーバスの写真で、特に公園で手榴弾を持つ病的な少年の写真では、その全世界を敵に回したような目が印象的でした。これはダイアンのやらせなのか、少年の内部から湧き出る狂気なのか気になります。もしかしてこの感覚こそが現実と虚像が織り混ざったドキュメンタリーなのかもしれません。

3.笠智衆のタイムトラベル!
『東京画』の笠智衆は『東京物語』の時代からタイムスリップしてきたとしか思えません。化粧とモノクロフィルムは一種のタイムマシンなのかもしれませんね。ただ、折角インタビューをしたのにナレーションを被せちゃうなんて、俺の東京はこうだ!といった具合にヴェンダースが理想を求め過ぎたとしか思えません。

4.吉増剛造のお手製かわいい映画達
吉増剛造の手作り映画を真似て、僕も『THE IKIZAMA』という作品を制作しました。何気ない日常を撮るつもりが、偶然カマキリなど数多くの昆虫の死を目の当たりにし、作品が予定とは全く違った方向へ向かい始めた事に「もしかしてこれがドキュメンタリーなのか!?」と感じた記憶があります。スケートボードで家に帰還するラストが、嘔吐を誘発しそうなノーカットのロングバージョンも観て頂きたかったです。

5.ゲットーと同化せよ!ペドロ・コスタ!
ゲットーの映画を撮るならゲットーに住め!と映画と生活を単一のものとして捉えていたペドロ・コスタ。『骨』以降、僕もこの事を強く意識するようになり、何度か自分の生活を定点カメラで撮影してみたりしました。この経験から自分のテリトリーで映画を撮る事により、ロケでは生まれない「慣れ」を映像内に感じる事が出来ました。

6.セックス・・なし『ダブル・ブラインド』
これは・・ノンフィクション?でも展開もしっかりしているし・・でも編集の力でもあるだろうし・・と色々考えながら観た映画でした。役者である監督は「あ、脚本はこうだったけど、こっちの流れもあるぞ!」とイレギュラーに流れを変える事が出来ます。そして、それに答える相手の役者も凄い。やはりこういった映画は本当に結婚する勢いの男女が撮るべきなのだろうと感じました。

7.どう俺の嫁!?『気狂いピエロ』
今回も可愛く撮ってやるぜウへへへ!みたいなゴダールのアンナ・カリーナに対する愛情を感じさせる映画。ゴダールのそういった目線が、アンナのチャーミングな一挙一動から伝わってくる感じがしてなりません。僕も自身の作品で出演者の女の子をもっと可愛く撮ってあげたい!と思いすぎるあまり、彼女とケンカしてしまった記憶があります。なんだかその経験が一種のドキュメンタリーのような気もします。やはり役者と監督の距離というものはいつの時代も絶妙であります。


まとめ
僕の中のニュードキュメンタリーとは「体験こそドキュメンタリー」という言葉だと思います。ドキュメンタリーと言われる作品を観て、影響を受け、それを参考に自分で体験してみる。これこそが僕の考えるニュードキュメンタリーだと思います。

2011年2月5日土曜日

最終報告




 大学院1年安達裕美佳です。報告がたいへん遅れてしまった事をお詫びします。
 以下最終報告です。

 
 

 最初この授業を取るときnewdocumentaryという授業名の意味のわからなさに惹かれた。私は基本意味の分からないものが好きだ。わからないから知りたい。好奇心がくすぐられた。ほんとはプロジェクトの授業は一つだけ取ろうと思っていた。しかもその一つはもう決まっていた。しかし気になる。制限時間ギリギリの滑り込みでプロジェクト課目の用紙を提出した。そのあと、再び優柔不断に私は思い悩み始めた。先に決めていたプロジェクトはいわゆる“がち”なプロジェクトであることは間違いなかった。本当に自分掛け持ちできるのか。自分の制作もしたいし。心の声。学生生活事務へ行った。「すみません。さっきのプロジェクトの授業やっぱり一つやめていいですか。」これで少しはゆとりができるだろう。しかし、わだかまりは消えなかった。恐ろしいほど元気が出ない。自分さっきよりも後悔してないか。心の声。再び学生生活事務へ行く。「すみません。さっき一度やめた授業やっぱり取っていいですか。」ものすごく晴れ晴れした気分になる。まぁなんとかなるだろ!心の声。こうして私はnewdocumentaryの授業に参加することとなる。

 newdocumentryの授業は今まで無意識に気になっていたことを意識的に考える訓練の場となった。そしてそこでは何も間違ってはいないし、あっているとも言えなかった。「リアリティーとは何か。」というお題から始まって、今まで当たり前だと思っていた概念を覆すような意見が飛び交った。真実、正義とは何か。様々な固定観念を根底から揺るがしていく。そしてリアルタイムで新たな考えが生まれていく。あの場はまさにnewdocumentary。
 
 改めて私にとってnewdocumentaryとは何かを考えてみる。私自身、作品の中で“一番身近で飾り気のない人々”という意味で自分の家族のドキュメンタリー写真を作品に取り入れている。家族とは特殊な存在であると思う。生まれた時から生活を共にし、さまざまなプライベートな一面を目にする事ができる。さらに私の興味は、彼らを写真におさめながらも、彼らの背景に映るその場の温かい家族の光景とは何ら関係もないものに注がれる。それらは木々や、たまたま置いてあった籠や鉄パイプなどである。何故そこにあるのか。それ以前にその形が気になる。それを絵に描きだしてみる。そういうことをを続けていくうちにそれをやるのが作品みたいになってくる。これが作品であるかどうかも自分では判断し難いものがある。私のしていることはその場その場のリアルタイムで進行していく。その行為に意味がなかったとしても大した問題ではない。やる事に意味があると思った。やる前に色々考えるよりやった後に気づく事の方が貴重だと思った。newdocumentryとは生き物みたいなものだ。常に変化し進行し続ける。つまり私の作品は私にとってnewdocumentryなのだ。





あと

この場をお借りして恐縮なのですが、一つ宣伝があります。

2/2水〜2/19土まで私の所属するもう一つのプロジェクト、ワダエミプロジェクトによる展示「ワダエミ衣装空間」展が渋谷の桑沢学園にて開催中です。皆さん観に来て下さい。よろしくお願いします。
http://wadaemip.web.fc2.com/


安達 裕美佳

最終報告

こんばんは、野口です。
最終報告の投稿が大変遅くなってしまいました、申し訳ございません。

ドキュメンタリーの最初のイメージは記録。
同時に、ドキュメンタリーは真実というイメージもありました。

しかし、そうだとは限りません。
当たり前ですが、例えば映像には撮影した人の主観が入ります。
ファウンドフォトのように写真を選んだ場合も、それは同じです。

私は「かもめ食堂」のふんわりした雰囲気の映像が好きだったのですが、
授業を通して、何だか自分は誰かに操作されているのではないかという気分になり、不思議な気持ちになりました。(少し癪な感覚です。)
でも変わらず、あのくすんだ感じの雰囲気は好きです。

また議論では、皆が自分の言葉で表現している中で、
私は自分の言葉を現したくない時がありました。
作品制作は、自己表現の連続だと思います。
デザインする時とはまた違った感覚である、色々な世界があることを感じました。

また、理解することが前提ではない映像について再認識しました。
周りにありふれている映像は、理解できるものが多く、
映像を見た時にすぐに理解できない場合は、私は気持ちが悪いと思ってしまいます。
しかし理解できなくても、映像は存在できます。
もしかしたら、後になって分かるのかもしれません。
その一見当たり前の感覚は、私にとってとても表現の自由を感じるものでした。

授業の中では皆の知識の量や、日常を詳しく見つめる姿勢に驚き、
私ももう少し、自分というものを固めていきたいと思いました。

以上のように、ニュードキュメンタリーの授業は、今までの日常に、別の意識が働くものでした。
日常を色々な視点で切り取り、これからも新しいことをもっと知りたいと思います。
私にとって、それがニュードキュメンタリーです。



最後に最終授業時に発表したポートレートを提出します。





これは二年前のプリクラです。
シングル(恋人なし)の大学の友達とクリスマスに集まる
「シングルジングル」という会の前に、中学の友人と撮ったものです。

それとまったく同じ構図で、今年に撮ったものがこれです。











さらに友人と服と場所を交換して撮ったものがこれです。










正直、一番気になるのはプリクラの性能の変化です。
もう少し古いプリクラを使ったら、より変化が大きくて面白いかもしれません。
撮影は、まるでスポーツをしているような忙しさでした。







恋人同士で服を交換して写真を撮る活動
「switcheroo」http://sincerelyhana.com/index.php?/projects/projects/を参考にしました。
自分の自己表現を行う場である洋服を、誰かと交換すると、
自分や相手を見つめるきっかけになります。
それまで見えなかったものが見えてきます。

こちらの投稿も遅くなってしまってすみません。
一年間ありがとうございました!!

野口昌代

2011年2月3日木曜日

最終報告 

こんにちは、李です。
報告の提出遅くなり、本当に申し訳ございません。

この授業1年間通して、NEW DOCUMENTARY授業の正体は
何ですか、正直僕いまでもよく分かりませんでした。

毎週皆一緒に何がを探していく、
ミストの中に出口を探す感じ、
こういう授業の体験は人生初めて、
とても新鮮な授業であり、同時に、
目的不明の授業でもあります。

でも
この授業に感謝したいことは、
課題で
お母さんに頼んて
昔の写真を整理して貰ったとき、
お母さんが昔の自分を見ながら、いろいろ語った瞬間、
お母さんの目がキラキラしてました。
それはいままで見たことのないお母さん。

とても美しい人です。

そのことは多分、
僕のNEW DOCUMENTARY でした。

2011年2月2日水曜日

金子さんからの投稿です

 私にとってこの授業は「結局、ドキュメンタリーとフィクションの違いは何なのだろう」という疑問が深まったものでした。先日黒澤清監督が講演で、フィクションであっても、変化し流動的な存在である人間が演じているのだから、その時その時の人間が映っているという意味でドキュメンタリー的だ、というような事を言っており、ますますドキュメンタリーとフィクションの境目が分からなくなりました。ドキュメンタリーは真実を映し出すと思っていましたが、制作者の意図によって映像が切り取られている時点で制作者の表現であり、中立的ではあり得ないと今は考えています。
 授業のトピックで一番印象的で腑に落ちたのは、何かを伝えたくて表現するわけではない、という部分です。美術を分かる、分からないで考える人が多いのは、表現というのは伝えたい事があるからだという思い込みから来ているのかもしれないと思いました。先日ある書評を読んでいたら、最近では文学でも分かりやすいものが多くなっているが、世の中のことそうそう分かってたまるか、分かりやすいものだけじゃないだろう、というようなことが書いてあり、文学でも美術でも芸術というのは何か分からないものを表現することに存在意義があるのだろうと思います。
 また別に、最近新聞記事で、指紋学(だったと思います)の研究をしている人の小さなインタビューが載っていたのですが、そこでは、昔は自分は何が好きでどんな事をしている、などといった情報によって個人を特定していたが、今では指紋を初めとした身体的特徴によって個人を特定する社会になってきている(例えば、マンションのオートロックに指紋や指の静脈や瞳の模様?のようなものを利用するとか)ということが書かれていて、何かポートレイト写真に通じるところがあるような気がしました。
 
金子由紀子

2011年1月31日月曜日

最終報告


「ドキュメンタリー」
この文字記号が示す意味すらわからず、授業に参加しました。



もともとロジカルな思考からデザインを考えていた自分にとって
この授業は、はじめ全く意味がわかりませんでした。

それは、「ドキュメント」という事柄に関して
今まで一度も向き合ったことがなかったからです。
また、美術制作をしている方々の芯にある制作意図や概念に
直に触れたことがなかったからです。


写真や映像作品を通して行ったディスカッションは
自分にとって全く考えたことのなかった領域であり
とても遠く感じ
その意味を理解することに精一杯でした。

同時に皆さんの意識の深さに驚愕し
目の前に広がる風景に
感覚的な同意をしているだけでした。

そこに自分の意見など発生するような隙もなく
ただただ翻弄されていたように思います。


今住んでいる現実世界から
未知の領域、仮想世界へ入り込む時間。
そんな授業時間でした。


こうして一年間の授業に対する考えを書こうとも
未だ抽象的な事柄しか出てこないのが事実です。

ただこうして
結論の出ない考えを巡らすことが
大切なことなんだと思います。



武藤





プロジェクト最終報告






 最初に、1月30日に間に合わなくて申し訳ありませんでした。






 以下、最終報告です。



 私にとってニュードキュメンタリーの授業は、今まで自分が避けてきた事に向き合えた授業でした。



それは、他者の作品について意見を述べたり、深く考察する事、もしくはその作品に対して自分がどんな立場にいるのかを考えることです。



 それまで、自分の意見を人前でちゃんと言うことが苦手なわたしは、授業内であまり積極的に発言できませんでした。ですが、他の人はみんな自分の考え方をしっかりもっていて、感じた事をすぐに言葉にできてすごいなーと思いました。そしてみんなの意見を聞いているうちに、「自分の考え方をしっかり持ちたい。」「自分の感覚を言葉にしたい。」と思う様になりました。



やはり言葉にしてみるというのはもの作りをする人にとって、とても大事な要素というか、制作とは何なのかという答えをだすのに必要な作業過程のように、いまは感じます。






 それを教えて下さったプロジェクトメンバーのみなさん、ホンマ先生、諏訪先生、柳本先生、本当にありがとうございました。









最後に、授業でみたいくつかの映像作品から影響を受けて作った作品や、なんかコレ自分の感覚に近いなーと思った作品をのっけてみます。

これは永山則夫の映像を観た後、「主人公が不在にまま物語は進み、本人のいた環境が物語を語りはじめる。」と先生が言っていた事について考えていた時に作ったものです。洋服を樹脂で固めて、中は空洞になっています。
最近思うのは、誰か人を造る時、裸だと「人間」という一つの記号になってしまう、その人自身を表すのは肉体ではなく、その人が身につけている、もしくは周囲にあるものなんじゃないかしら?と。

ヴェンダースのパリテキサスと東京画を観た後の話し合いで、「ヴェンダースは大きい作品と小さい作品を交互に撮っていて、映像をやる人には珍しい。」という話をホンマ先生がおっしゃっていました。その感覚って彫刻や絵画をやっているひとの感覚に近いんじゃないかな、と。私の制作の進め方も、ドローイングと立体を交互にやっていて、ドローイングでぐちゃぐちゃしてもやもやしたものを、そこからでてきた何かしらの答えみたいのが立体だったりするな、と。




なにやら小さくてモヤモヤしたものが、ぐちゃぐちゃと並べてあります。

ヴェンダースの東京画では、迷っている過程そのものを作品にしちゃっていいんだー!という勇気をもらえました。

2011年1月30日日曜日

プロジェクト最終報告

一年間の授業を通じて私が気付いた事は、私が「言葉」と「映像」の間で揺れ動いていたという事です。

授業で様々な映像を見る度に、記憶力の悪い私は「言葉」を忘れて、映像を純粋に楽しもうとしていました。「映像」の中に「言葉」を見付ける、つまり映像を読み解こうとする事は、映像を理解しようと努める事で、映像を楽しむ事とは少し意味合いが違うかな?と思っていました。

しかしながら授業を受けて思った事は、演出や編集といった映像の意味付けによって映像を一つの方向に見せようとする行為と、観客が映像の中に作者の意図や映像的な偶然性を見つけて、行間を読もうとする行為とが結びついているのだろうか?という事です。

私の専攻分野である写真にこの問題を置き換えると、「言葉」は作者と私とを近づけるツールですが、と同時に「映像」=カメラと私との間には、私が映像の対象に手を触れる事が出来ないという絶対的な距離があると思います。映像は言葉では表わし得ない物ですが、私は映像を理解しようとする際に、「言葉」と言う手段を使います。映像は現実を写し取りますが、現実では無い為です。私は「言葉」によって私と映像との間に横たわる隔たり、映像が架空や虚構であるという現実を乗り越えようとします。つまり映像は表現・伝達の手段であり、言葉は映像が実体としてあって初めて存在出来るので、「言葉」と「映像」は結びついていると考えています。

最後に一年間お世話になりました。どうもありがとうございました。

大橋 玄