ブログ読者のそわさんからコメントがありました。改めて投稿しておきます。諏訪
曽和です。「ザ・コーブ」僕も観ました。
僕は和歌山出身ということもあり、自分は鯨を喰う人間であるとの自負のようなものを持っております。
先週も鯨肉を自分で料理して、喰いました。
ですから、鯨を喰う人間の視点から、あの映画を観たわけです。
中立な視点では観られない。
ドキュメントと呼ぶのも憚られるほどに、極端に一方的な視点で物語化されたその内容に、初めは笑ってしまいました。
コメディー映画かと思いました。
しかし、観続けているうちに、次第にこれは笑ってられないぞという気持ちになってきました。
授業でも言われていたように、完全に客観的(つまり物語化されない〉ドキュメンタリーというものはありません。
が、僕には、この映画が宣伝しようとするメッセージは、あまりにも大仕掛けで幼稚なものに見えました。皆さんも、恐らく似たような感想を抱いたでしょう。
この物語に乗せられる人なんて、ほとんどいないんじゃないのと思うんです。
ところがどっこい多くのアメリカ人は、「少しの嘘は混じっているかもしれないが、半分以上は真実である」と信じて観ておるわけです。(つまり、それは虚と実が未分化に了解されている時点で、“ほぼ”真実になるわけですが〉
確かに、比較できる複数の視点がなければ、“相対”的に判断することが出来ないのは当然なのかもしれません。
一方的な視点からの情報しか知らなければ、それは“絶対”になるのです。
それがプロパカンダです。
思えば、「笑い」というのは、ボケとツッコミという二つの視点が衝突して起こることにおいて相対的といえます。(この二つが結託して“絶対”を作り出す場合もありますが)
ですから、笑えなくなるということは、“絶対”が支配しているということです。
この「ザ・コーブ」は、ツッコんで笑いにして(相対化して)、解毒するよりない。
そうせずに飲み込むのは危険な代物です。(ザ・コーブっていう名前の内服薬ありそうですけどね。)
授業では複数の生徒から、反対の太地町側の視点からの情報も欲しいという意見が見られました。
つまり、複数の視点からの情報をみてみた上で、相対化したいということであると思います。
あの映画だけ観ても、相対化の拠り所が持ちにくいわけですね。
映画と自分との間に確かに距離を感じるんだけども、その距離が測りにくい。
受け入れがたいものである事は分かれども、自分とどう関係があるのか。
多くの生徒は一応は(鯨を捕食する)日本人の立場から観たのでしょうし、その絶対的表現に拒絶反応を感じたでしょう。
しかし、自分が「当事者」とどの程度の距離で、立ち位置で、関係しているのかが分かりにくいんですよね。
ああいう表現は、見てる側に「君はどっちサイドなの?」という迫り方をしてくるように感じるんですよ。
「自分は、鯨を喰う側の人間なのか?」って考えても、もしかしたらイエスかノーかで答えられるものでもないかもしれないんですよね。
かといって、無視できるものでもない。
授業の終盤で、諏訪先生が提出された問いは、とても今日的なものだと思います。
ジャーナルとドキュメントとは違うということ。
ドキュメンタリーは主観にしかならないということ。
見る側も、見せる側も中立ではないということ。
僕たちは、文脈(物語)の中に生きてしまっているということ。
僕たちは、様々な物語の中で生きています。
色んな穴から、色んな物語が入ってきている。多孔なものなのです。
または、無数のチューブから物語を注入されることで、養分を得ているものなのです。
そして、「食」というテーマは、それらの交差にあるものです。
つまり、「食」に関しては「当事者」にならざるを得ない。
ウンコして、「これは自分が食ったものではありません。」とは言えない。
自分が当事者であると認識したときに、人は物語と分かち難い存在になるのかもしれません。
客観性の王座から、引きずり降ろされた盲目のオイディプスのように。
>ジャーナルとドキュメントとは違うということ。
返信削除>ドキュメンタリーは主観にしかならないということ。
>見る側も、見せる側も中立ではないということ
程度の差こそあれ、ジャーナルも主観性を隠しているだけであって
客観的でもなければ中立でもないと強く感じています。
あ、小田君、お久しぶり。
返信削除まぁ、そうだよね。
ジャーナルはそれを隠してるだけかもしれないですよね。
中立なんて幻想にすぎないのかもしれないよね。
中立なんて言ってる奴が一番怖いかもしんないよね。
そして、だからこそ今日的な問題であるのです。
ここのところはゼミの皆さんに、ぜひ考えて欲しいところ。
そんなジャーナルが世界を覆っている社会ですよ、現在は。
一体、ジャーナルは何をしようとしているの?
そんな、ジャーナルに、どう対することができるの?