2010年5月6日木曜日

それでも私は、ドキュメンタリーという言葉に憧憬があります。
危機への備えや困難を克服しようとする意思を実現する方法として生み出されたものだからです。
 身近なものへの関心は、遠方のものへの関心があってこそリアリティーにつつまれる。そのリアリティーが遠方のものをファンタジーとしてとらえさせる。つまりファンタジーというのはリアリティーを獲得するための知的技術のたとえとして誕生してきたものではなかったのかなあと、あてどなく、先日の授業時の皆さんの話を聞きながら思っていました。
 そしてそのとき同時に、フランス人にしてアメリカで活躍したインダストリアルデザイナー、レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)の「口紅から機関車まで」という言葉が頭をよぎりました。文字通り、口紅のようなものから、流線形の機関車をデザインしたり、コンコルドの内装を手掛けたり、タバコのピースのパッケージも彼のデザインですが、その目線の広い角度をあらためて思い起こさせられたのです。
 ローウィはまた消費者の中に潜む気持ちの流れにMost Advanced Yet Acceptableという段階を見出し、それを「MAYA段階」だとして、「新しいものの誘惑と未知のものに対する怖れ」との臨界点だと看破した才人でした。
 その臨界点なることもあらためて意識してみたいなあと思いました。そんなことを思っていると唐突ながら、沖縄普天間の問題が、リアリティーとファンタジーを話題とする中で何の不自然さもなく登場してもいいのになとも。私たちの臨界点を覗き込んで見る必要もありそうだなと思ったものですから。(ま、私はこの連休中に、MAYA段階だったiPhone 3Gについて、これは要らないという結論、つまり未知に対する恐れを克服しきったのでスッキリしました。)柳本。

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