2010年5月29日土曜日

おいしそうなカツ丼

吉本ばなな「満月」
 
 真っ暗なみやげもの屋のガラスをのぞきながら、私はまだ開いているめし屋の明かりを見つけた。すりガラスの戸をのぞきこむと、カウンターだけで、客は1人しかいなかったので、私は安心して引き戸を開けて入った。 
 何か思い切り重いものが食べたくて、
「カツ丼を下さい。」
 と私は言った。
「カツからあげるから、少し時間がかかるけどいいかい。」 
 と店のおじさんが言った。私はうなずいて、白木の匂いがするその新しい店は、手のゆきとどいた感じのいい雰囲気だった。こういうところはたいていおいしい。

(中略)

 やがてカツ丼が来た。
 私は気をとり直して箸を割った。腹がへっては・・・、と思うことにしたのだ。外観も異様においしそうだったが、食べてみると、これはすごい。すごいおいしさだった。
「おじさん、これおいしいですね!」
 思わず大声で私が言うと、
「そうだろ。」
 とおじさんは得意そうに笑った。
 いかに飢えていたとはいえ、私はプロだ。このカツ丼はほとんどめぐりあい、と言ってもいいような腕前だと思った。カツの肉の質といい、だしの味といい、玉子と玉ねぎの煮えぐあいといい、固めにたいたごはんの米といい、非のうちどころがない。そう言えば昼間先生が、本当は使いたかったのよね、とここのうわさをしていたのを思い出して、私は運がいいと思った。ああ、雄一がここにいたら、と思った瞬間に私は衝動で言ってしまった。
「おじさん、これ持ちかえりできる?もうひとつ、作ってくれませんか。」

 そして、店を出た私は、真夜中近くに満腹で、カツ丼のまだ熱いみやげ用パックを持ち途方にくれてひとりで道に立ちつくすはめになってしまった。

(中略)

「カツ丼の出前にきたの。」私は言った。「わかる?ひとりで食べたらずるいくらい、おいしいカツ丼だったの。」
 そして、リュックの中からカツ丼のパックを取りだした。
 蛍光灯の明かりが青いたたみを照らしていた。TVの低い音が流れている。ふとんは、今雄一が出てきた形のままストップしていた。

(中略)

「雄一、本当はもう帰りたくないんでしょう?今までの変な人生のすべてと訣別して、やり直すつもりなのね。うそをついてもだめ。私は、知っている。」言葉は絶望を語っているのに、不思議と落着いていた。「でも今は、とにかくカツ丼よ。はい、食べて。」
 青い沈黙は涙が出るほど息苦しくせまってきた。うしろめたい瞳をふせた雄一は、カツ丼をうけとる。生命を虫くいのようにむしばむその空気の中、予想もつかなかった何かが私たちを後押しした。
「みかげ、その手どうした?」
 私のすり傷に気づいた雄一が言った。
「いいから、まだ少しでもあったかいうちに食べてみて。」
 ほほえんで私は手のひらで示した。
 まだ何となくふにおちない様子だったが、
「うん、おいしそうだね。」
 と言って雄一はふたをあけ、さっきおじさんがていねいにつめてくれたカツ丼を食べはじめた。
(後略)


改めて読んでみると、カツ丼の描写はそれほどおいしさの想像をかき立てるようなものではないような気がするのですが、私の記憶の中ではカツ丼がおいしそう、という印象が強いです。
ストーリーの中でもカツ丼が大きな役割を果たしているので、そのせいもあるのかもしれません。
私は、主人公がお店で食べるカツ丼よりも、持ち帰り用パックに入ったカツ丼の方を想像します。
パックの白いフカフカした素材の様子、ふたを開けると内側に水蒸気がたまって水滴が付いている様子などが目に浮かびます。

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