2010年6月1日火曜日

テラヴァーニャと辺見庸



辺見庸 「もの食う人びと」

残飯をくらうのページ




リクリット テラヴァーニャ
ギャラリーなどで料理をして振舞う リレーショナルアート(関係性の芸術)の作家

4 件のコメント:

  1. お、辺見さんですね。

    人間は身体全部でリアリティを感じているわけですよね。一般には「五感」という分けられ方をしますが、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という感覚は、当然のことながら別々の感覚器官にとって感受されます。人間は、それら別々の感覚を総合することにより、事物のアクチュアリティを測量・判定・判断しているわけです。そして、それらにズレが生じた場合に、リアリティが揺らぐ。リアリティとは総合的な感覚です。脳味噌が総合させているわけです。
    映像または言語表現は、五感の内の限られた器官に訴えかけます。映像であれば視覚と聴覚(サイレント映画などは視覚のみであったわけですが)、言語表現の場合は、音声言語は聴覚、視覚言語は視覚ですね(言語表現は記号化されていますので、ちょっとややこしいのですが、それこそ“文脈”が無ければわからない。“文脈”とは記憶でもあります。)。
    今話されている「食事の映像」の場合ですと、視聴覚を総合して感じている。しかし、味というのは味覚・嗅覚におうところが大きいわけですね。映像にはそれらの感覚を直接的に刺激することは出来ない。それらの感覚は、創造で補っているのでしょうか?創造が補っているとしたら、記憶の中からそれらの感覚を引っ張ってきているのでしょうか?
    十歳の時に、市村正親が主演する「クリスマス・キャロル」の舞台を観に行きました。ミュージカルだったかな、そのあたりはよく覚えていません。ただ、その中で強烈に覚えている場面があります。市村さん演じる老人スクルージが「現在のクリスマスの精霊」に「人間の優しさの搾り汁」だという飲み物を手渡され、飲むという場面です。スクルージは美味そうに一気に飲み干すと、あまりの心地よさに更に欲しいと、幽霊に懇願する。これまで飲んだことが無い飲み物だと。もちろん、十歳の私は、そんな飲み物は飲んだことが無かったですし、現実にはそんな飲み物は存在しないわけです。しかし、私の脳裏には、えもいわれぬ味が、カラカラに乾いた砂漠に降る慈雨の雨のように感じられた。未だにこれ以上の味を想像することは出来ません。
    しかし、それどんな味なの?と問われても解りません。実際には、味わったことが無いからです。味らいが感じたことがないから。それは不思議な感覚です。
    いわゆる、「美味そう」と思わせる映像を“作る”というのは視覚・聴覚を駆使して、味覚・嗅覚を想像させることでしょう?

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  2. 芸術と言われている、人が作るそれは、欠けた感覚(総合的に体感できない感覚)を与えるものですよね。
    つまり、リアルではない。
    そこに、リアリティを感じるというのは如何に?
    欠けている感覚はどうやって埋められているの?

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  3. 今、授業で辺見さんの映像が出ていますが、「リアリティがあるかないか?」という問いに迷えるというのは、「余裕」があるからなのかなと思いました。
    「富める」者だからでしょう?
    現代の日本では「余裕」に迷うという事態が起きている。

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  4. 「もの食う人びと」が出たのなら、「反逆する風景」も対として出してみてはどうですか?
    辺見氏があとがきにて高内壮介氏の詩句を引いて述べています。
    「例えば殺人。 この世に存在するものを、 消すことが犯罪なら、 この世に存在しないものを、 創ることだって犯罪ではないか。 (中略)……だから俺は、 犯罪意識なしに、 ものを創るヤツを、 信用しない。」(花地獄・飛翔より)

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