2010年5月30日日曜日

写真をあげてみてはどうですか。

あがってくるのはみんな映画のワンシーンのようですが、それは前後関係で記憶に残っているので他人と共有しにくいですね。
 写真には映画ほど食事の光景は写されていませんが、お話の文脈から断ち切られた光景としての写真からあげてみてはどうですか。
 私はロバート・フランクの写真集「アメリカ人」の中の、カウンタにーずらっと並んで短い昼食時間にかきこんでいるデトロイトの自動車工場の労働者たちと思しき人たちの食事光景が切なくて忘れられません。
 高梨豊さんの「東京人」にもゴダールの映画のポスターを背にして一人カウンターで食事する(たぶんカレーライス。そこの店にはカレーライスとナポリタン・スパゲッティしかなかったですから。新宿駅中央口を出て階段を上がって外に出てすぐのところにありました)光景を撮った写真もしかり。
 写真をお見せしたいところですが、著作権に抵触しますから控えます。いや、著作権の問題はそれとしても、図書館にありますから現物を見てもらったほうがいいと思います。ここで見るのはあくまでも会話のインデックス代わりにとしておかないと、リアリティーをバーチャルに受け止める術ばかりが成長するようで気がかりです。

 追記:今週は雨でなければ学部の学生とストリート・ウォーキングに出かけます。出会い頭のリアリティを求めて新宿から東京タワーまで歩きます。恒例行事?ですが、梅雨が近そうなので今週に実施。そういう次第で今週は大学に戻れなく出られませんのであしからず。(柳本)

3 件のコメント:

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  2. 曽和聖大郎です。授業の動画拝見致しました。
    リアリティが違和感や変化、または「食」に関係しているのではないかという方向性は面白いと思います。
    はて、そもそもリアリティとは何ぞや、何のために感じる必要があるのや?と考えてみると、恐らく生理学的には「生きるため」ということでしょう。初めは、そのための感覚だったのでしょう。つまり、アクチュアリティという言葉も出ていましたが、リアリティというのは、現前性を確認するためのセンサなわけです。リアリティというのは「疑う」事から始まる。なぜ疑うか、「怖い」からです。怖いというのは、生命の危険を察知するための感覚です。そういう意味で、当然「食」という生命維持のための基本活動には深く関連している。ただ、「食」といったときに、「食べる」ことだけではなく「食べられる」ことも同時に含まれてくると思います。つまり、「疑い」を持たない者は、生物的には弱い者ですから。すぐに捕食者にパックリいかれちゃいます。“これは本当か?騙されてはいないか?”自然界では、現状把握能力が生死を別けます。リアリティ判別能力は生きるためには不可欠な能力です。
    この前、江ノ島に行ってきたのですが、江ノ島駅前のマクド(関東で言うところのマック)でテリ玉バーガーを買って、表に出ました。春先の昼下がり、風の強い日で、まだ肌寒かったのですが、江ノ島の海岸に向かうべく橋を渡りながら、 テリ玉バーガーを一口、口に運んだ。その刹那、引っ叩かれたような衝撃を横っ面に受け、テリ玉バーガーを落としてしまいました。アッ、しまった!バササッ耳元で聞こえた音と風圧。トンビが空に昇って行くのが見えます。ピーヒョロヒョロ~、橋の路面で無残にひしゃげたハンバーガー。トンビにやられたわけですが、その瞬間、カロリーは高くとも、どこか実在感の乏しい食べ物と、それを何の警戒心も無く(つまりリアリティもなく)、ド安心して食おうとしていた自分が、一気に弱肉強食という自然の掟によって相対化されてしまった。その後は、情けなかったです。笑いをこらえる通行人のカップルに対して、苦笑いを返しながらグチャグチャのそれを拾い集める自分の姿が見える。すごい客観的になっちゃうのね、ああいう時って。照り焼きソースの生姜の風味だけが妙に喉奥に残っていました。
    安寧とした人間社会の文脈から、引き離されてみると江ノ島の風景も違って見えてきます。
    リアリティが「開かれる」時というのは、見えていなかったものが、急に襲い掛かってきます。それまでの“文脈”は破壊され、世界が新しい顔を見せる。
    現代の人間の社会は、自然界とは違います(本当か?)。人は食べて、生殖活動をするためだけに生きているわけではない(と信じられている)。つまり、「文化」というものがあるわけで、皆さんはその「文化」ひいては「芸術」の分野におけるリアリティについて語り合っているわけですね。
    しかし、やはり私たちが身体でリアリティを測っている以上、生理的反応と無関係ではない。一度、身体にまで話を還元すると、話題が普遍化しますから、その上で多様性とリンクさせて考察していけば、議論が積み上がっていくのではないかと思います。
    自然界の摂理から、現代社会の間には何があるのでしょう?
    授業の様子を拝見していて、辺見庸氏の著作を思い出しました。とりわけ、「もの食う人びと」(94年)「反逆する風景」(97年)そして、イタリアの写真家マリオ・ジャコメッリについての幾つかの発言です。呼んでいない人は、必読です。辺見氏がジャコメッリについて語ったNHKの番組はDVDがありますので、入り用でしたら、今度諏訪先生にお貸しします。
    追記:「食」がリアリティを感じさせるのは、表面しか映せない映像メディアの欠点を補うように、物理的な内面(内臓)を示唆し知覚させてくれることも一つの要因ではないですか

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  3. あ、それとファンタジーというのは、『例え』ですなんじゃあないですか?
    『隠喩』“のような”を省いてしまったヤツです。
    しかし、おそらくそれは「省いた」のではなく。
    最初は、省かれた状態として出発したのです。
    『直喩』の方が後です。“のような”を付け加えたのです。
    これは、言葉の話だけではなく、映像を含めた「語る」事全般に言えそうです。

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