2010年6月7日月曜日

かもめ食堂

野口です。
投稿が遅くなってしまったのですが、映画「かもめ食堂」を紹介します。

フィンランドで日本食のお店を営む、お話です。
なので、食事をするシーンや食事を作るシーンが、たくさん出てきます。

http://www.youtube.com/watch?v=57mGwsGiXys&feature=related
↑ 2:50 の、おにぎりを食べるシーンは、しみじみとリアリティを感じます。
激しい質のリアリティとは違う感じ。
映像によって記憶が呼び起こされます。一緒に食べてる気分。

食べてる食べ物が、日本食だからよりリアリティを感じるのかも。

5 件のコメント:

  1. 曽和です。「ザ・コーブ」僕も観ました。
    僕は和歌山出身ということもあり、自分は鯨を喰う人間であるとの自負のようなものを持っております。
    先週も鯨肉を自分で料理して、喰いました。
    ですから、鯨を喰う人間の視点から、あの映画を観たわけです。
    中立な視点では観られない。
    ドキュメントと呼ぶのも憚られるほどに、極端に一方的な視点で物語化されたその内容に、初めは笑ってしまいました。
    コメディー映画かと思いました。
    しかし、観続けているうちに、次第にこれは笑ってられないぞという気持ちになってきました。

    授業でも言われていたように、完全に客観的(つまり物語化されない〉ドキュメンタリーというものはありません。
    が、僕には、この映画が宣伝しようとするメッセージは、あまりにも大仕掛けで幼稚なものに見えました。皆さんも、恐らく似たような感想を抱いたでしょう。
    この物語に乗せられる人なんて、ほとんどいないんじゃないのと思うんです。
    ところがどっこい多くのアメリカ人は、「少しの嘘は混じっているかもしれないが、半分以上は真実である」と信じて観ておるわけです。(つまり、それは虚と実が未分化に了解されている時点で、“ほぼ”真実になるわけですが〉
    確かに、比較できる複数の視点がなければ、“相対”的に判断することが出来ないのは当然なのかもしれません。
    一方的な視点からの情報しか知らなければ、それは“絶対”になるのです。
    それがプロパカンダです。

    思えば、「笑い」というのは、ボケとツッコミという二つの視点が衝突して起こることにおいて相対的といえます。(この二つが結託して“絶対”を作り出す場合もありますが)
    ですから、笑えなくなるということは、“絶対”が支配しているということです。
    この「ザ・コーブ」は、ツッコんで笑いにして(相対化して)、解毒するよりない。
    そうせずに飲み込むのは危険な代物です。(ザ・コーブっていう名前の内服薬ありそうですけどね。)
    授業では複数の生徒から、反対の太地町側の視点からの情報も欲しいという意見が見られました。
    つまり、複数の視点からの情報をみてみた上で、相対化したいということであると思います。
    あの映画だけ観ても、相対化の拠り所が持ちにくいわけですね。
    映画と自分との間に確かに距離を感じるんだけども、その距離が測りにくい。
    受け入れがたいものである事は分かれども、自分とどう関係があるのか。
    多くの生徒は一応は(鯨を捕食する)日本人の立場から観たのでしょうし、その絶対的表現に拒絶反応を感じたでしょう。
    しかし、自分が「当事者」とどの程度の距離で、立ち位置で、関係しているのかが分かりにくいんですよね。
    ああいう表現は、見てる側に「君はどっちサイドなの?」という迫り方をしてくるように感じるんですよ。
    「自分は、鯨を喰う側の人間なのか?」って考えても、もしかしたらイエスかノーかで答えられるものでもないかもしれないんですよね。
    かといって、無視できるものでもない。

    授業の終盤で、諏訪先生が提出された問いは、とても今日的なものだと思います。
    ジャーナルとドキュメントとは違うということ。
    ドキュメンタリーは主観にしかならないということ。
    見る側も、見せる側も中立ではないということ。
    僕たちは、文脈(物語)の中に生きてしまっているということ。

    僕たちは、様々な物語の中で生きています。
    色んな穴から、色んな物語が入ってきている。多孔なものなのです。
    または、無数のチューブから物語を注入されることで、養分を得ているものなのです。
    そして、「食」というテーマは、それらの交差にあるものです。
    つまり、「食」に関しては「当事者」にならざるを得ない。
    ウンコして、「これは自分が食ったものではありません。」とは言えない。

    自分が当事者であると認識したときに、人は物語と分かち難い存在になるのかもしれません。
    客観性の王座から、引きずり降ろされた盲目のオイディプスのように。

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  2. 捕鯨に関する金子みすずの詩を三編載せておきます。

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  3. 鯨とり

    海の鳴る夜は 冬の夜は
    栗を焼き焼き 聴きました
    むかしむかしの鯨とり
    ここのこの海 紫津が浦(しずがうら)

    海は荒海 時季はは冬
    風に狂うは 雪の花
    雪ととびかう銛の縄

    岩も礫(こいし)もむらさきの
    常は水さえ むらさきの
    岸さえ朱にけに染むという

    厚いどてらの重ね着で
    船のみよしに見て立って
    鯨よわればたちまちに
    ぱっと脱ぎ捨てすっ裸
    さかまく波におどりこむ
    むかしむかしの漁夫たち
    きいてる胸もおどります

    いまは鯨ももうよらぬ
    浦は貧乏になりました

    海は鳴ります 
    冬の夜を
    おはなしすむと
    気がつくと

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  4.     鯨法会
      
       鯨法会は春のくれ、
       海にとびうおとれるころ。

       はまのお寺が鳴るかねが、
       ゆれて水面(みのも)をわたるとき、

       村のりょうしがはおり着て、
       はまのお寺へいそぐとき、

       おきでくじらの子がひとり、
       その鳴るかねをききながら、

       死んだ父さま、母さまを、
       こいし、こいしとないてます。

       海のおもてを、かねの音は、
       海のどこまで、ひびくやら。

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  5. 大漁

       朝焼け小焼だ
       大漁だ
       大羽鰮(いわし)の
       大漁だ。

       浜は祭りの
       ようだけど
       海のなかでは
       何万の
       鰮のとむらい
       するだろう

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