2010年5月31日月曜日

ホンマ追伸です。 映画に限らずもちろんカツ丼のような小説や他の表現でもいいと思います

「食べる映像」中嶋編

中嶋です。印象に残った「食べる映像」を紹介します。


http://www.youtube.com/watch?v=B8SZGBnEgWw

『Survive Style 5+』

 映画Survive Style 5+のワンシーンです。無表情で料理を食べる浅野忠信も印象的ですが、目玉焼きの黄身を破ったり、パンケーキに蜂蜜をかけるなど、料理のインサートにもリアリティを感じます。後、画面全体がちょっと青みがかっていて、料理が冷めているように見えます。


http://www.youtube.com/watch?v=OTQ3MNPxyfA

『Beastie Boys "Body Moviin"』

 このビデオは高校生の時に一度だけ見た事があるのですが、終盤に出てくる謎の食べ物がすごく印象に残りました。 謎の食べ物は5:15から登場します。
ホンマです。明日の授業は「食べる映像」を色々観たいと思っています。
もちろんこの前の石森くんの紹介してくれたペリカンがハトを食べる衝撃映像はリアリティあったと思います。でもじゃあ例えば殺人現場の映像を観てそれがリアリティあるっていうのは当たり前過ぎると思うんです。ボクも含めてみなさん専門は違っても芸術的に物を創造する立場になると思うんです。そこでやはり映画など作られた映像の中からよりリアリティを感じるとかアクチャアリテイを感じるとかの議論をしたく思っています もちろんアニメ大歓迎です。出来れば今からでもyoutubeで観れる映像をこのブログにアップしてもらうかあるいは授業でみんなで観れるようにDVDとかを持ってきてもらいたいと思います。もちろんペリカンのような映像でもちゃんと議論の対象になるのであれば大歓迎です。一緒に授業を作っていきましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=eZOpHeqL6Ws
家族ゲーム 森田芳光監督


2010年5月30日日曜日

写真をあげてみてはどうですか。

あがってくるのはみんな映画のワンシーンのようですが、それは前後関係で記憶に残っているので他人と共有しにくいですね。
 写真には映画ほど食事の光景は写されていませんが、お話の文脈から断ち切られた光景としての写真からあげてみてはどうですか。
 私はロバート・フランクの写真集「アメリカ人」の中の、カウンタにーずらっと並んで短い昼食時間にかきこんでいるデトロイトの自動車工場の労働者たちと思しき人たちの食事光景が切なくて忘れられません。
 高梨豊さんの「東京人」にもゴダールの映画のポスターを背にして一人カウンターで食事する(たぶんカレーライス。そこの店にはカレーライスとナポリタン・スパゲッティしかなかったですから。新宿駅中央口を出て階段を上がって外に出てすぐのところにありました)光景を撮った写真もしかり。
 写真をお見せしたいところですが、著作権に抵触しますから控えます。いや、著作権の問題はそれとしても、図書館にありますから現物を見てもらったほうがいいと思います。ここで見るのはあくまでも会話のインデックス代わりにとしておかないと、リアリティーをバーチャルに受け止める術ばかりが成長するようで気がかりです。

 追記:今週は雨でなければ学部の学生とストリート・ウォーキングに出かけます。出会い頭のリアリティを求めて新宿から東京タワーまで歩きます。恒例行事?ですが、梅雨が近そうなので今週に実施。そういう次第で今週は大学に戻れなく出られませんのであしからず。(柳本)

2010年5月29日土曜日

前回の講義で紹介した動画のリンクを張ります。

大学院二年の石森です。

前回、僕が紹介した映像のリンクを貼っておきます。

『Pelican eats bird』

http://www.youtube.com/watch?v=QNNl_uWmQXE&playnext_from=TL&videos=u0zMANPvZGQ


『"Let's Go Justin!" - EVO 2009 SFIV Grand Finals Justin Wong Vs Daigo

Umehara』

http://www.youtube.com/watch?v=ijhUJTZrxLk&playnext_from=TL&videos=kuovOBoyU_I


『切れすぎておかしくなった少年修羅パンツPart1[和訳字幕あり]』

http://www.youtube.com/watch?v=KiafHHtth7k&playnext_from=TL&videos=4UEiIqcQgtY

『Marshmallow test』

http://www.youtube.com/watch?v=4ZikfUI0G5o&playnext_from=TL&videos=rqT_BebYA-A

おいしそうなカツ丼

吉本ばなな「満月」
 
 真っ暗なみやげもの屋のガラスをのぞきながら、私はまだ開いているめし屋の明かりを見つけた。すりガラスの戸をのぞきこむと、カウンターだけで、客は1人しかいなかったので、私は安心して引き戸を開けて入った。 
 何か思い切り重いものが食べたくて、
「カツ丼を下さい。」
 と私は言った。
「カツからあげるから、少し時間がかかるけどいいかい。」 
 と店のおじさんが言った。私はうなずいて、白木の匂いがするその新しい店は、手のゆきとどいた感じのいい雰囲気だった。こういうところはたいていおいしい。

(中略)

 やがてカツ丼が来た。
 私は気をとり直して箸を割った。腹がへっては・・・、と思うことにしたのだ。外観も異様においしそうだったが、食べてみると、これはすごい。すごいおいしさだった。
「おじさん、これおいしいですね!」
 思わず大声で私が言うと、
「そうだろ。」
 とおじさんは得意そうに笑った。
 いかに飢えていたとはいえ、私はプロだ。このカツ丼はほとんどめぐりあい、と言ってもいいような腕前だと思った。カツの肉の質といい、だしの味といい、玉子と玉ねぎの煮えぐあいといい、固めにたいたごはんの米といい、非のうちどころがない。そう言えば昼間先生が、本当は使いたかったのよね、とここのうわさをしていたのを思い出して、私は運がいいと思った。ああ、雄一がここにいたら、と思った瞬間に私は衝動で言ってしまった。
「おじさん、これ持ちかえりできる?もうひとつ、作ってくれませんか。」

 そして、店を出た私は、真夜中近くに満腹で、カツ丼のまだ熱いみやげ用パックを持ち途方にくれてひとりで道に立ちつくすはめになってしまった。

(中略)

「カツ丼の出前にきたの。」私は言った。「わかる?ひとりで食べたらずるいくらい、おいしいカツ丼だったの。」
 そして、リュックの中からカツ丼のパックを取りだした。
 蛍光灯の明かりが青いたたみを照らしていた。TVの低い音が流れている。ふとんは、今雄一が出てきた形のままストップしていた。

(中略)

「雄一、本当はもう帰りたくないんでしょう?今までの変な人生のすべてと訣別して、やり直すつもりなのね。うそをついてもだめ。私は、知っている。」言葉は絶望を語っているのに、不思議と落着いていた。「でも今は、とにかくカツ丼よ。はい、食べて。」
 青い沈黙は涙が出るほど息苦しくせまってきた。うしろめたい瞳をふせた雄一は、カツ丼をうけとる。生命を虫くいのようにむしばむその空気の中、予想もつかなかった何かが私たちを後押しした。
「みかげ、その手どうした?」
 私のすり傷に気づいた雄一が言った。
「いいから、まだ少しでもあったかいうちに食べてみて。」
 ほほえんで私は手のひらで示した。
 まだ何となくふにおちない様子だったが、
「うん、おいしそうだね。」
 と言って雄一はふたをあけ、さっきおじさんがていねいにつめてくれたカツ丼を食べはじめた。
(後略)


改めて読んでみると、カツ丼の描写はそれほどおいしさの想像をかき立てるようなものではないような気がするのですが、私の記憶の中ではカツ丼がおいしそう、という印象が強いです。
ストーリーの中でもカツ丼が大きな役割を果たしているので、そのせいもあるのかもしれません。
私は、主人公がお店で食べるカツ丼よりも、持ち帰り用パックに入ったカツ丼の方を想像します。
パックの白いフカフカした素材の様子、ふたを開けると内側に水蒸気がたまって水滴が付いている様子などが目に浮かびます。

食事の場面が印象的(おいしそう)な映画

食事が印象的な映画について、Twitterに寄せられた反応を紹介します。

conscious_jp エリック・クーの「一緒にいて(Be With Me)」において食事シーンってのは印象的でした。あと賛否あるでしょうが、「息もできない」のジャジャン麺は僕を虜にしています。(サクライ)

woomingen飛び入り失礼いたします。ストリームを拝見できず既出かもしれませんが小津映画でそば屋かうなぎ屋で笠智衆ら同級生が3人ほどで食事をしているシーン(タイトル失念)や韓国映画で屋台で安い焼酎をあおるシーンが思い浮かびました






oda_c 食事の映画との事ですが、「ゴットファーザー」シリーズはどれも印象的な食事シーンがあったように思います。(パート2かな)貧しくても丸テーブルを囲んでゆったり食事してる様子には憧れを抱きました。







2010年5月25日火曜日

リアリティーを感じる瞬間





 私にとってリアリティーを感じる瞬間というのは日常の中でふとした瞬間に非日常的な違和感を感じたときです。
 上の写真は家族で群馬の田舎にお墓参りをしに行ったときに撮った写真です。田舎の田園風景を背に、空に向かって携帯電話で何かを撮っている母親の姿に私は異様なインパクトを受けました。日常的に見慣れている母親の姿に珍しいものを目の当たりにしたようなリアリティーを感じ、思わずシャッターを切っていました。

 これはその写真をもとにドローイングをしたものです。
 
 私は普段制作している作品のモチーフとしても自分が実感を持てるものをモチーフとしていて、この写真は非常に私の制作意欲をくすぐるものでした。






 これはうちのベランダから見える一軒挟んだ先さきにあるマンションの庭の風景です。
 駐車場の奥にフェンスに囲われた空間に妙な違和感を感じ写真を撮りました。そこの空間はマンションの住民すら簡単には立ち入れないスペースで謎は深まるばかりでした。特に気になるのが手前に生えたシュロの木。なぜあんな所に生えているのか。庭の手入れは行き届いているようで、地面には美しく苔が生えています。
 
 あとで聞いた話なのですが、明治、大正時代の家の庭にはよくシュロの木が植えられていたそうです。今ではシュロに毒があるとかでとんと見かけなくなっていた木だそうです。それを聞いたときピンときたのですが、あの空間は昔の家を取り壊してマンションを建てるときに庭だけとっておかれた空間なのではないでしょうか。このあたりの地域では一軒たてるごとに必ず庭をもうけて緑を絶やさなくして景観をよくする決まりがあってのことでしょう。
 そう思うとあの違和感にも頷けます。なんせあそこの空間だけ明治時代から時が止まってしまっているのかもしれないのですから。


 これは同じ場所で同じところを撮った写真ですが、前の写真とは少し違うところがあります。
 シュロの木の奥に赤紫色の花が咲いています。
 時間が止まっているような空間にも現在進行形で時が流れ季節を追うごとに変化していく。
 こんなところにも私はリアリティーを感じました。
 

 

kani


先日、いつものように駐輪場から造形大へ向かう道でのことです。
そこにはいつものような見慣れた風景があったのですが、その日は何かが少しだけ違いました。



カニがいました。



僕は今年から造形大に通っているので、この大学の近くでカニが出没することが珍しいことなのかどうかはわかりませんが、僕は驚きました。
山の中の歩道にです。カニがいたのです。

近くに川があれば沢ガニがいるのかもしれません。
もし本当に野生のカニだとしたら、なんだか自分の知らないところでこうやって生活している生物がいるということを改めて実感させられ、この(とりあえず僕にとっては珍しく思えた)山の中の大学近くで生きたカニを見られたことになんだか嬉しくなりました。

もしくは、カニを飼っていた誰かがここで捨てたのかもしれません。
もし飼われていたカニであれば、これは“誰かに山の中で捨てられたカニ”であり、“誰かが捨てた”という行為のもとに生まれた光景です。

リアリティーやアクチュアリティーという言葉が合っているかどうかはわかりません。
どちらにしても、普段なにげない日常生活の中に偶然もしくは必然的に現れたこの不思議な光景は、その日、その後の自分のテンションを少なからず上げる要因となった出来事でした。

2010年5月24日月曜日

私がリアリティーを感じる映像

私がリアリティーを感じる映像

映画「ジョゼと虎と魚たち」の中の朝食シーンです。

とにかくすごくおいしそうで、この場面を見ると同じように味噌汁とご飯と卵焼きという食事を作りたくなります。
味噌汁のお椀は多分プラスティックだろうな、とか、そのお椀が口に当たる感じとか、味噌汁の具のワカメのどろっとした食感とか、ご飯は固めなんじゃないか、とか想像します。

こんなにおいしそうに見えるには撮影とか、撮影現場でその食事を実際に用意する方法とか、技術的なものが大きいのかな、と思います。
俳優の演技はあまり関係ないと思います。

私は昔から文学でも映画でも食べ物がおいしそうに描かれている作品が好きなのですが、なぜ好きかという感覚をあえて言葉にすると 信頼感がある ということなのかな、と考えました。

小説では、吉本ばななの「満月」という小説のカツ丼がおいしそうです。
カツ丼そのものの描写自体はたいした事ないのですが、カツ丼を巡るシーンの描写全体としておいしそうな印象が私の中にすごく刷り込まれています。

と、ここまで「おいしそう」のキーワードで書いてきましたが、私にとって おいしそう=リアリティを感じる なのかというとちょっとずれるかなとも思えてきました。
おいしそうはおいしそう、というだけかもしれないです。

tasiga

電車のなか


私が先日、電車内で遭遇した光景です。
 
前の授業で「違和感にリアリティを感じる」とおっしゃっていた方いましたが、私も電車に入った時、確かに何かしらの違和感を感じました。
そしてなんでだろう?と見渡してみたら、こいつを発見しました。
酔払ったサラリーマンがやったのかな?
お昼、食べきれなかったOLさんが入れたのかな?
と、色々想像してしまいました。
そして違和感と同時に、誰かがこうしなければこの光景は生まれなかったんだなあという、誰かの痕跡とか、ぬくもりみたいなものを感じました。
私にとっては違和感というよりも、”誰かが確かにそこにいて、その痕跡が残っている”ということにリアリティーを感じました。

2010年5月23日日曜日

石森さんより次の通り提案がありました。授業用のTwitterアカウントを作ったほうがいいかな。@nobusuwa 提案があります。大学院のプロジェクトはtwitterやUSTで中継しているわけですし、もう少しtwitterやUSTのコメントを講義に反映してみてはどうでしょうか?多義的な視点による意見や見解を取り入れることでより開かれた講義になるのではないでしょうか??

2010年5月22日土曜日

                                   精神病院の中庭 2010 





 


                           home ・ home ・ home  2009  



 私の作品を紹介します。 

絵画・立体を使ったインスタレーションで作品を展開しています。

下画像 home・home・homeは先日アップした写真(甑島プロジェクトの記録写真)の中に写っているものです。



周囲に存在している自然の中に絶対的な自然の存在を感じられた時、言葉にできない何か強いものを感じます。それは実際不確かでリアリティと言えるのかまだ分かりませんが、私は信じれるものであると思います。



青木真莉子





 




リアリティー&アクチュアリティーのその先




大学院二年の石森五朗です。


柳本先生のコメントを受けてもういちどリアリティーについて考えてみようと思います。


リアリティーとはそれだけでは存在せず、自分との関係から生まれるものと考えるのあれば自分の中にそのリアリティーに反応する何かがあるはず。


その何かとは多くの人が共通して持っているものもあれば、少数または自分だけしか持っていないものもある。普遍的か普遍的ではないか。大きな物語と小さな物語とも関係するかもしれないです。


今回、僕が紹介しようと思う映像は3種類(計4つ)あります。違う視点からリアリティーという事象を眺めてみようと思い3種類選びました。


ひとつめに僕にとって「リアリティー」のある映像


ふたつめにリアリティーを感じているであろう「人々」の映像


みっつめにアクチュアリティーが損なわれたであろう、もしくは満たされない「人々」の映像


この授業でわかってきた重要な『リアリティー(迫真性)』のキーワードに『違和』や『ズレ』という言葉、そして『アクチュアリティー(現実性)』という言葉が出てきました。


今回、発表する映像を踏まえ話し合うことにより、新しいキーワードが現れ、次につながる議論が出来ればいいのですが。


それではよろしくお願いします。


※事前に今回紹介する映像をこのブログに埋め込んだりリンクを張ることは、あえて避けようと思います。当日一緒に観ることが先入観もなく自然な形で話し合いができると思ったからです。講義終了後にこのブログにてリンクを張りたいと思っています。


2010年5月21日金曜日

ジャ・ジャンクー「in public」演出ノートより
DV(デジタルビデオ)カメラを携え、公共空間の中で見慣れた見知らぬ人びとと出会う。人びとから距離を置きずっと目を凝らして見つめていると、最後に私はなす術のない視線に触れる。それは、わたしの視線から具体的な人物、理由、言葉を捨て去り、ただ動作、音、塵の中に漂う苦悶と絶望だけを留める。

2010年5月17日月曜日

リアリティーアクチュアリティ

柳本先生のご指摘通り リアリティという言葉よりアクチュアリティactuality 自分にとっての「確からしさ」で考えてもらってもいいと思います。


2009年に参加した甑島プロジェクトでの制作場所・作品を撮った写真です。



大型バスが容易に入る車庫がまるで手を伸ばせばつまめる小さな模型のように見え、



周りに広がっていた小さな畑がまるでジャングルのように見ます。





ナニカミョウダ、ツカメナイ。





ある現実にそのものとして存在していたものが、



ある写真や映像の現実の中ではそうでなくなる瞬間に身震いします。





これも一つのリアリティ。



青木

2010年5月16日日曜日

家族の日記

私がリアリティーを感じた写真集、『家族の日記』 小倉英三郎(著)について投稿します。

私は最初、この写真集を見て、日常生活を切り取ったものという印象を受けました。
日常生活の写真に共感して「リアル」を感じたのかな、と思ったのですが、見ているうちに何かが違うという思いを持ちました。

この写真集は、癌で亡くなる奥さんの記録だったのです。

私はどうしても、作者のバックグランウンドやインタビューを受けて画面の表面を考えることが多いのですが、、その作者のバックグラウンドを知ることで、しっくりと来た部分があります。


二人の子供がすやすやと布団で寝ている写真。
自宅のベランダに干された洗濯物を、遠くから撮った写真。
奥さんのポートレート。
窓ガラスに貼りついた赤ちゃん、転がった奥さんのサンダルの写真。

それらの写真が、右下の年月日の数字の表記と共に、積み重なる生活を訴えてくるように思いました。
作者の方は、記録を続けることで、毎日を繋ぎとめたい思いがあったのではないかと思います。

そしてそれは私に、強いリアリティーを感じさせました。
同時に、日常の生活を考えるきっかけになる写真集でもあると思います。

2010年5月14日金曜日

ジダンの映画です。この映画がリアルだと言いたいのではありません。


スポーツを映像で見るならやっぱりTVだなーとこの映画を観て思いました。


TVでサッカーの試合を見たときの興奮がこの映画を観たときには感じなっかたのをおぼえています。それはTVで見たときと映画では、観戦している状況が違うという理由によるのかもしれませんが、私が気になったポイントは映画だと映像がよく見えすぎるという所です。TVの方が映像を観ているというよりは雰囲気を感じている要素が強いように思います。


個人的な感覚かもしれないけど、試合でシュートが入った時の驚きって、もちろん、やったーって要素が強いと思うのですが、そのうちの何パーセントかには、ボール運びが常態化していた、日常性みたいなのが壊された驚きがあるように思います。それで、ああこのスポーツはゴールにボールを入れるゲームだったなと確認するみたいな感じで不思議にリアルに感じることがあります。だからTVってぼーとしてたり、部分的にみてたりあまりちゃんと画面をみていなくてだから興奮もするように思います。


では、ジダンの映画はリアリティーが無いかというとそうではないようにも思います。むしろ映像的にはTVの何倍もリアリティーを感じます。だから映像として優れていて画面の全体がよく観れる感じがします。それで最後まで映像として観てしまうのですが、代わりにTVのような盲目性はないように思います。





2010年5月11日火曜日

本日の授業

中継を視聴してくれていた方から『とても貴重な体験ができました。編集がないUstreamは「人の無意識が映りやすい」という面白さがありますね。完成された中継よりも今回のような中継の方が僕は面白いと思いました。ありがとうございます』というコメント届きました。それから『中継、途中から見てました。ちょっと変な話になっちゃいますがこの中継映像自体にもある種のリアリティ?を感じました。個人的な要素ではあるのですが、知人が何人か授業を受けているので、彼らの現在(若干のタイムラグのある)を自宅から覗きみているということに妙な感覚を覚えるような・・・。ときおりストリーミングが遅れて、映像が止まって、音声だけ聞こえてくる状況とか。普段、その知人達と直接会って話したりしている「現実」の記憶との齟齬感といった方がいいのか・・・または、その知人たちが、今自分が見ている映像の数コンマ秒前?にこのように行動し、このような言葉を造形大の教室で発しているのだ。と想像することで感じることもリアリティ?なのか・・・映っているのが知人やよく知っている場所ではない、普通のテレビ番組の生中継の映像ではこのような感覚は起きないような気がします』というtwitterのコメントもありました。
リアリティという言葉をコンテキスト(行き掛かり)無しに探そうとしても無理だと思います。どこかに転がっているものではないと思うからです。リアリティという感覚は、自分との関係から生じることだと思います。異和感、から始まるのもその一つの典型なんでしょう。異和感って、自分とズレていて整合させるのに少し時間のかかる感覚、つまり自分があって始まる感覚ではないでしょうか。
 みんなに少し戸惑いがあるように思えましたが、リアリティという言葉から入っていったからかなと思いました。この際同時にアクチュアリティーという感覚も想定してみてはどうでしょう。(柳本)

今日の授業 

リアリティが違和感や変化と関係あるという事は今日の発表の収穫でした。リアリティという言葉自体の意味はあんまり考えなくていいと思います。なんでこの映像や画像に自分は引きつけられるのか?を考えればいいと思います。とにかく画面の表面にとどまって考える事が重要だと思います。作者のバックグランウンドやインタビューとかに惑わされないようにしたほうが健全だと思います。今日具体的に映像や画像が見れて良い議論になったと思います。ボク自身凄く気付きもあって勉強になりました。発表してくれた人達ありがとうございます。
本日の授業終了。リアリティは違和感や、ギャップに生じるのかもしれない。みなの取り上げてくれた映像とリアリティの話はどれも興味深かった。「リアリティとは何か」という問いに言葉で答えようとするよりも、「あれもリアリティ」「これもリアリティ」「こんなとこにもリアリティ」と、ひとつひとつ具体的な映像を取り上げてゆくほうが、創造につながる感じがします。今回の報告を受けて、またみなさんのリアクションや映像を投稿してください。また違う観点もあるかと思います。ブログを見ていただいた方のご意見も歓迎いたします。コメントありましたらよろしくお願いします。オープンな議論ができればと思います。諏訪

リアリティ

高倉です。リアリティを感じるイメージについて未だ考察中です。その過程で見つけた動画を張ります。地下鉄サリン事件15年 テレビ 
僕にはファンタジックに演出しているように見えます。 

「映像 リアル」で検索し、最上位に出た動画
3DCGだそうです。 


その他、「映像 リアル」で検索した結果、上位から4件目に、
「衝撃映像 リアルすぎ! 少女射殺」
2009年9月21日 ... 世界中に衝撃!イランの首都テヘランで、十代の少女が胸部を銃で撃たれ死亡する映像
というwebサイトが出ました
前回の授業で、リアリティとはリアルでないものへの感覚である。という議論がありました。前述のサイトでの「リアル過ぎ!」という表記は、リアルでないものへ向けているリアル(リアリティと同意味)のように見えます。しかしこの表記には何か違和感があります。

リアリティを感じる風景





極普通の風景のなかに、何処の空気だけ、滲まない。そういうときリアリティ感じが浮かんてくると思う。
それぞれは代々木、練馬、原宿の風景。

SONY BRAVIA (bouncy balls)

http://www.youtube.com/watch?v=2Bb8P7dfjVw


僕の「リアリティを感じる映像」は、アメリカのSONYが制作したBRAVIAのCMです。これは、上り坂から町に大量のスーパーボールが降ってくるという内容のCMで、サンフランシスコの1ブロック分丸ごとを閉鎖してから特別な圧縮空気砲でスーパーボールを一気に打ち出し、23人のカメラマンで撮影したとのこと。意図して行った撮影ではあるのですが、スーパーボールの動きは実際に転がしてみないと想像もつきません。なので、これは一種のドキュメンタリーだと感じました。ちなみに僕は部屋の中からスーパーボールを見ている人や、ビックリして飛び出してくるカエルにリアルを感じます。

2010年5月10日月曜日

赤い風船

やのです。
僕の「リアリティを感じる映像」は、『赤い風船』です。
「リアリティを感じる映像」と言われて、映画を観ているときによく「今のリアリティあるなあ」なんて思ったりするんですけど、あらためて思い出そうとすると意外に出てこなかったり、理由がうまく形にならなかったりして、とりあえずTSUTAYAで端からパッケージを見て回って、辿り着きました。
 
アルベール・ラモリスという監督の50年以上前に制作された短編映画で、2年前に国内でリバイバル上映されていて、そのときに観ました。
友達のいない少年と赤い風船との友情の物語。
ただそれだけの映画なんですが、とにかく風船が活写されていて、それこそ本当に生きているかのように自由に動き回ります。
比喩表現的な意味の「生きているよう」ではなくて、本当に命を持って生きているみたいに。最初は犬や猫の演技を見たときに近い驚きがありました。
それどころか、だんだんと風船の感情が伝わってきて、途中からはただの驚きが妙な現実感に変わっていく。「本当に風船は生きているんじゃないか」とまではいかなくても、「この風船は生きているかもしれない」までは思っていました、たぶん。これがここ10数年で撮影されたものならともかく、50年も前にあそこまで自然な映像を作る技術があるわけないと思い込んでいたからかもしれないけれど。
それがフィクションだとはわかっていても、その瞬間に僕は赤い風船にリアリティを感じてしまっていました。自分が人間以外のものにリアリティを感じ、感情移入をしたのは、後にも先にもこれだけです。
 
劇映画はありていに言えば「嘘」なので、自分にとって劇映画の「リアリティ」というものは、嘘である映画を現実世界の出来事に引き寄せる瞬間に感じられるものだと思います。それはファンタジーとかリアリズムとか関係なく。
その「リアリティ」にも、経験則からくるものと想像力からくるものがあると思うのだけれど、『赤い風船』に関しては後者のそれでした。
サイトの予告編でも、わずかながらその感覚は得られると思います→ 公式サイト(音流れます)

 
 
あと関係ないんですが、青山真治さん(と思われる人物)が、昨日フィクションについて面白いことを言っていたのでURL載せます。
twitter.com/cooff/status/13619664008

2010年5月9日日曜日

リアリティを感じる写真





 私がリアリティを感じる写真は「秋葉原通り魔札事件」の報道写真として毎日新聞により撮影された、犯行直後の現場を上空から撮影したものです。

 私はそれまで、実際に人がケガによって出血している現場と言うものを見たことが無く、仮に見たとしても小学生の時の鼻血や擦り傷からの出血程度の軽いものでした。ですので「ケガや傷でによる出血」というものを、映画やtvドラマ等を通してしか見たことが無く、アクション映画などで刀で斬り付けられ、大量に血しぶきが出るシーンや、大きなケガをおっての出血等についても特に疑問を持つことなく「これは虚構だから、おおげさにやっているんだ」と思って見ていました。逆算的に「現実に、同じようなケガをおったとしても、こんなに出血はしない」と意識はしていませんでしたが、そう考えていました。


 ところが、この写真に写っている、犯人のナイフに刺された被害者の、アスファルトに流れる血液の量は、私の想像をはるかに超えたものでした。私は前述の通り、ナイフに刺された事よる出血の量と言うものは、映画などの影響から「刺された傷口から少しずつ、少しずつ血が流れ出る。決して大仰なものではない」と決め付けていたのです。恐らく、虚構の映像作品で同じ光景を見ていたら「血、出すぎじゃない?」「リアリティない」とまで思っていたかもしれません。私はこの写真をみて、自らの現実感のズレを自覚し、同時に自分の予想を遥かに超える現実の多様性の一端を見たような気がしました。

2010年5月8日土曜日

「まちの呼吸」

「まちの呼吸」
文:寺田 侑 写真:飯田 鉄 (株)冬青社 2007年発行
という写真文集を、あるきっかけで購入しました。私はこの本にとてもリアリティーを感じます。

この本の内容は埼玉県の川口市を舞台にした、フィクションなのですが、私がこの本にリアリティーを感じる理由として、希望と絶望が描かれている様に思えるからです。

今回の課題は「リアリティーのある映像(イメージ)」を取り上げる事ですので、この本に掲載された写真についての意見を以下に述べます。この本には全部で四十数枚の写真が掲載されています。風景や人物が様々なフォーマットで撮影され、レイアウトされています。

これらの写真を見る度に、私はロラン・バルトの著書「明るい部屋」に記載されている言葉で、<それはかつてあった>という記述を思い起こします。私はこれらの写真を見る度に、記録としての確からしさを感じるのです。

先日、写真表現に於いて、写真の撮り手としての写真家の存在と、写真に写される被写体の存在によって、写真表現は力強く明確にされるという論旨を、ある写真家の先生に言われました。

ファンタジーという言葉を辞書で調べると、幻想や空想という意味です。フィクションは作られた物ですが、私はその内容が記録以上の現実味(リアリティー)を含んでくる場合、ある種の人生観(希望や絶望感、人間性のようなもの)に、読み手がファンタジーを抱くのではないか?と考えます。この場合のファンタジーとは、フィクションに自分の仮の姿を投影するという意味です。

私はこの本に記載された写真の持つ、記録としての確からしさ=力強さは、読み手の現実と空想の狭間にある、ある種の人生観にあるのではないか?と考えています。

オオハシ

2010年5月6日木曜日

それでも私は、ドキュメンタリーという言葉に憧憬があります。
危機への備えや困難を克服しようとする意思を実現する方法として生み出されたものだからです。
 身近なものへの関心は、遠方のものへの関心があってこそリアリティーにつつまれる。そのリアリティーが遠方のものをファンタジーとしてとらえさせる。つまりファンタジーというのはリアリティーを獲得するための知的技術のたとえとして誕生してきたものではなかったのかなあと、あてどなく、先日の授業時の皆さんの話を聞きながら思っていました。
 そしてそのとき同時に、フランス人にしてアメリカで活躍したインダストリアルデザイナー、レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)の「口紅から機関車まで」という言葉が頭をよぎりました。文字通り、口紅のようなものから、流線形の機関車をデザインしたり、コンコルドの内装を手掛けたり、タバコのピースのパッケージも彼のデザインですが、その目線の広い角度をあらためて思い起こさせられたのです。
 ローウィはまた消費者の中に潜む気持ちの流れにMost Advanced Yet Acceptableという段階を見出し、それを「MAYA段階」だとして、「新しいものの誘惑と未知のものに対する怖れ」との臨界点だと看破した才人でした。
 その臨界点なることもあらためて意識してみたいなあと思いました。そんなことを思っていると唐突ながら、沖縄普天間の問題が、リアリティーとファンタジーを話題とする中で何の不自然さもなく登場してもいいのになとも。私たちの臨界点を覗き込んで見る必要もありそうだなと思ったものですから。(ま、私はこの連休中に、MAYA段階だったiPhone 3Gについて、これは要らないという結論、つまり未知に対する恐れを克服しきったのでスッキリしました。)柳本。

登録

現在、松岡、大橋、矢野くんが登録完了しています。他の人もよろしくお願いします。
諏訪

2010年5月1日土曜日


写真アップの確認用です。別に意味はありません。