2011年2月2日水曜日

金子さんからの投稿です

 私にとってこの授業は「結局、ドキュメンタリーとフィクションの違いは何なのだろう」という疑問が深まったものでした。先日黒澤清監督が講演で、フィクションであっても、変化し流動的な存在である人間が演じているのだから、その時その時の人間が映っているという意味でドキュメンタリー的だ、というような事を言っており、ますますドキュメンタリーとフィクションの境目が分からなくなりました。ドキュメンタリーは真実を映し出すと思っていましたが、制作者の意図によって映像が切り取られている時点で制作者の表現であり、中立的ではあり得ないと今は考えています。
 授業のトピックで一番印象的で腑に落ちたのは、何かを伝えたくて表現するわけではない、という部分です。美術を分かる、分からないで考える人が多いのは、表現というのは伝えたい事があるからだという思い込みから来ているのかもしれないと思いました。先日ある書評を読んでいたら、最近では文学でも分かりやすいものが多くなっているが、世の中のことそうそう分かってたまるか、分かりやすいものだけじゃないだろう、というようなことが書いてあり、文学でも美術でも芸術というのは何か分からないものを表現することに存在意義があるのだろうと思います。
 また別に、最近新聞記事で、指紋学(だったと思います)の研究をしている人の小さなインタビューが載っていたのですが、そこでは、昔は自分は何が好きでどんな事をしている、などといった情報によって個人を特定していたが、今では指紋を初めとした身体的特徴によって個人を特定する社会になってきている(例えば、マンションのオートロックに指紋や指の静脈や瞳の模様?のようなものを利用するとか)ということが書かれていて、何かポートレイト写真に通じるところがあるような気がしました。
 
金子由紀子

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