以下最終報告です。
最初この授業を取るときnewdocumentaryという授業名の意味のわからなさに惹かれた。私は基本意味の分からないものが好きだ。わからないから知りたい。好奇心がくすぐられた。ほんとはプロジェクトの授業は一つだけ取ろうと思っていた。しかもその一つはもう決まっていた。しかし気になる。制限時間ギリギリの滑り込みでプロジェクト課目の用紙を提出した。そのあと、再び優柔不断に私は思い悩み始めた。先に決めていたプロジェクトはいわゆる“がち”なプロジェクトであることは間違いなかった。本当に自分掛け持ちできるのか。自分の制作もしたいし。心の声。学生生活事務へ行った。「すみません。さっきのプロジェクトの授業やっぱり一つやめていいですか。」これで少しはゆとりができるだろう。しかし、わだかまりは消えなかった。恐ろしいほど元気が出ない。自分さっきよりも後悔してないか。心の声。再び学生生活事務へ行く。「すみません。さっき一度やめた授業やっぱり取っていいですか。」ものすごく晴れ晴れした気分になる。まぁなんとかなるだろ!心の声。こうして私はnewdocumentaryの授業に参加することとなる。
newdocumentryの授業は今まで無意識に気になっていたことを意識的に考える訓練の場となった。そしてそこでは何も間違ってはいないし、あっているとも言えなかった。「リアリティーとは何か。」というお題から始まって、今まで当たり前だと思っていた概念を覆すような意見が飛び交った。真実、正義とは何か。様々な固定観念を根底から揺るがしていく。そしてリアルタイムで新たな考えが生まれていく。あの場はまさにnewdocumentary。
改めて私にとってnewdocumentaryとは何かを考えてみる。私自身、作品の中で“一番身近で飾り気のない人々”という意味で自分の家族のドキュメンタリー写真を作品に取り入れている。家族とは特殊な存在であると思う。生まれた時から生活を共にし、さまざまなプライベートな一面を目にする事ができる。さらに私の興味は、彼らを写真におさめながらも、彼らの背景に映るその場の温かい家族の光景とは何ら関係もないものに注がれる。それらは木々や、たまたま置いてあった籠や鉄パイプなどである。何故そこにあるのか。それ以前にその形が気になる。それを絵に描きだしてみる。そういうことをを続けていくうちにそれをやるのが作品みたいになってくる。これが作品であるかどうかも自分では判断し難いものがある。私のしていることはその場その場のリアルタイムで進行していく。その行為に意味がなかったとしても大した問題ではない。やる事に意味があると思った。やる前に色々考えるよりやった後に気づく事の方が貴重だと思った。newdocumentryとは生き物みたいなものだ。常に変化し進行し続ける。つまり私の作品は私にとってnewdocumentryなのだ。
あと
この場をお借りして恐縮なのですが、一つ宣伝があります。
2/2水〜2/19土まで私の所属するもう一つのプロジェクト、ワダエミプロジェクトによる展示「ワダエミ衣装空間」展が渋谷の桑沢学園にて開催中です。皆さん観に来て下さい。よろしくお願いします。
http://wadaemip.web.fc2.com/
安達 裕美佳
今日、人形町で拝見しました。
返信削除とてもキャラクターの後姿・横向き・正面と素晴らしかったです。