一年間の授業を通じて私が気付いた事は、私が「言葉」と「映像」の間で揺れ動いていたという事です。
授業で様々な映像を見る度に、記憶力の悪い私は「言葉」を忘れて、映像を純粋に楽しもうとしていました。「映像」の中に「言葉」を見付ける、つまり映像を読み解こうとする事は、映像を理解しようと努める事で、映像を楽しむ事とは少し意味合いが違うかな?と思っていました。
しかしながら授業を受けて思った事は、演出や編集といった映像の意味付けによって映像を一つの方向に見せようとする行為と、観客が映像の中に作者の意図や映像的な偶然性を見つけて、行間を読もうとする行為とが結びついているのだろうか?という事です。
私の専攻分野である写真にこの問題を置き換えると、「言葉」は作者と私とを近づけるツールですが、と同時に「映像」=カメラと私との間には、私が映像の対象に手を触れる事が出来ないという絶対的な距離があると思います。映像は言葉では表わし得ない物ですが、私は映像を理解しようとする際に、「言葉」と言う手段を使います。映像は現実を写し取りますが、現実では無い為です。私は「言葉」によって私と映像との間に横たわる隔たり、映像が架空や虚構であるという現実を乗り越えようとします。つまり映像は表現・伝達の手段であり、言葉は映像が実体としてあって初めて存在出来るので、「言葉」と「映像」は結びついていると考えています。
最後に一年間お世話になりました。どうもありがとうございました。
大橋 玄
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