2010年6月29日火曜日
メカスのサイトと来週の古屋展
東京都写真美術館の古屋誠一展
http://syabi.com/contents/exhibition/index-18.html
70年代よりオーストリアのグラーツ住み活動する古屋誠一
85年に飛び降り自殺した妻クリスティーヌさんの写真を
それ以降繰り返し再編集して写真集や写真展を行う古屋さんの集大成展
古屋さんはオーストリアのカメラオーストリアという写真雑誌の編集キューレションにも
関わっている人です
来週の授業7月6日火曜午後5時写真美術館展示室ホール集合です
今日の授業のこと
「ミツバチの羽音と地球の回転」を発表してくれた中嶋くんの問題意識も
政治的でオーソドックスなドキュメンタリーもメカスのような美学のドキュメンタリーも
一緒に考えられると思うと発言したたかくらくんも
青木さんの芸術を言葉で説明することの難しさについての議論も
凄く重要だと思いました。
それらのことについて答えは簡単には出ないと思いますが諦めずに考え続けること大切だと思います
ホンマタカシ
2010年6月19日土曜日
「ハーツ」でした。
「ハーツ・アンド・マインズ-ベトナム戦争の真実」(1974年、ピーター・ディヴィス監督)
「ウィンター・ソルジャー-ベトナム帰還兵の告白(1972年、企画に賛同した17人の映画人グループの制作)
です。いま、東京都写真美術館で上映中です。「地獄の黙示録」などの映画制作に影響を与えたとされているのだそうです。
2010年6月18日金曜日
「ザ・コーブ」についての議論
ブログ読者のそわさんからコメントがありました。改めて投稿しておきます。諏訪
曽和です。「ザ・コーブ」僕も観ました。
僕は和歌山出身ということもあり、自分は鯨を喰う人間であるとの自負のようなものを持っております。
先週も鯨肉を自分で料理して、喰いました。
ですから、鯨を喰う人間の視点から、あの映画を観たわけです。
中立な視点では観られない。
ドキュメントと呼ぶのも憚られるほどに、極端に一方的な視点で物語化されたその内容に、初めは笑ってしまいました。
コメディー映画かと思いました。
しかし、観続けているうちに、次第にこれは笑ってられないぞという気持ちになってきました。
授業でも言われていたように、完全に客観的(つまり物語化されない〉ドキュメンタリーというものはありません。
が、僕には、この映画が宣伝しようとするメッセージは、あまりにも大仕掛けで幼稚なものに見えました。皆さんも、恐らく似たような感想を抱いたでしょう。
この物語に乗せられる人なんて、ほとんどいないんじゃないのと思うんです。
ところがどっこい多くのアメリカ人は、「少しの嘘は混じっているかもしれないが、半分以上は真実である」と信じて観ておるわけです。(つまり、それは虚と実が未分化に了解されている時点で、“ほぼ”真実になるわけですが〉
確かに、比較できる複数の視点がなければ、“相対”的に判断することが出来ないのは当然なのかもしれません。
一方的な視点からの情報しか知らなければ、それは“絶対”になるのです。
それがプロパカンダです。
思えば、「笑い」というのは、ボケとツッコミという二つの視点が衝突して起こることにおいて相対的といえます。(この二つが結託して“絶対”を作り出す場合もありますが)
ですから、笑えなくなるということは、“絶対”が支配しているということです。
この「ザ・コーブ」は、ツッコんで笑いにして(相対化して)、解毒するよりない。
そうせずに飲み込むのは危険な代物です。(ザ・コーブっていう名前の内服薬ありそうですけどね。)
授業では複数の生徒から、反対の太地町側の視点からの情報も欲しいという意見が見られました。
つまり、複数の視点からの情報をみてみた上で、相対化したいということであると思います。
あの映画だけ観ても、相対化の拠り所が持ちにくいわけですね。
映画と自分との間に確かに距離を感じるんだけども、その距離が測りにくい。
受け入れがたいものである事は分かれども、自分とどう関係があるのか。
多くの生徒は一応は(鯨を捕食する)日本人の立場から観たのでしょうし、その絶対的表現に拒絶反応を感じたでしょう。
しかし、自分が「当事者」とどの程度の距離で、立ち位置で、関係しているのかが分かりにくいんですよね。
ああいう表現は、見てる側に「君はどっちサイドなの?」という迫り方をしてくるように感じるんですよ。
「自分は、鯨を喰う側の人間なのか?」って考えても、もしかしたらイエスかノーかで答えられるものでもないかもしれないんですよね。
かといって、無視できるものでもない。
授業の終盤で、諏訪先生が提出された問いは、とても今日的なものだと思います。
ジャーナルとドキュメントとは違うということ。
ドキュメンタリーは主観にしかならないということ。
見る側も、見せる側も中立ではないということ。
僕たちは、文脈(物語)の中に生きてしまっているということ。
僕たちは、様々な物語の中で生きています。
色んな穴から、色んな物語が入ってきている。多孔なものなのです。
または、無数のチューブから物語を注入されることで、養分を得ているものなのです。
そして、「食」というテーマは、それらの交差にあるものです。
つまり、「食」に関しては「当事者」にならざるを得ない。
ウンコして、「これは自分が食ったものではありません。」とは言えない。
自分が当事者であると認識したときに、人は物語と分かち難い存在になるのかもしれません。
客観性の王座から、引きずり降ろされた盲目のオイディプスのように。
六ヶ所村ラプソディー
2010年6月7日月曜日
かもめ食堂
投稿が遅くなってしまったのですが、映画「かもめ食堂」を紹介します。
フィンランドで日本食のお店を営む、お話です。
なので、食事をするシーンや食事を作るシーンが、たくさん出てきます。
http://www.youtube.com/watch?v=57mGwsGiXys&feature=related
↑ 2:50 の、おにぎりを食べるシーンは、しみじみとリアリティを感じます。
激しい質のリアリティとは違う感じ。
映像によって記憶が呼び起こされます。一緒に食べてる気分。
食べてる食べ物が、日本食だからよりリアリティを感じるのかも。
2010年6月3日木曜日
ウォーキングの報告
1日は学部の授業で新宿―東京タワー間を歩きました。
学生は午前の授業を終えてからですので集合時間は13時50分。(50分と細かい指定は、何とかの法則とかいうのによりますが、これは1時半とか2時というような時間の指定の場合、人には弛緩した記憶としか残らないのだそうで、1時25分というようになぜ?と思わせる指定をすると遅刻者は激減する、というアメリカの何とか大学の教授の研究によるものだそうです。研究の中身は知りませんが、本当にそうすることによって校外で集まる時の学生の遅刻率は激減しました。当日も5分以内の遅刻者は一人で、他19名は時間前に集まりました。不思議です。)
で、残り時間を考えて全員電車で神保町まで移動。そこから歩き始めて、小川町、神田駅、日本橋、銀座、新橋、虎ノ門、芝公園を通過して4時30分にタワーに到着することを指示してスタートしました。
結果は、4時20分到着が私。35分が4名。50分が6名。5時が4名。5時が3名。5時10分が1名。他1名は脱落。順次展望台にのぼって、暮れなずむ東京を遠望しました。
途中、銀座通過時にほとんどの学生がMACのショールームで例の製品に触った模様。曰く、「いらない」「格好よくない」「絶対にすぐ壊す」「電車内で使っている姿を想像すると幻滅」。
参考データ:歩行距離18キロ、所要時間2時間。歩数約25000歩。
学生も、結構歩けるものだと納得していました。ちなみに当日は2名が男子、残りは女子。元気なものです。以上レポートまで。(柳本)