2011年1月26日水曜日

最終レポート ニュードキュメンタリー・ドキュメンタリー

ニュードキュメンタリーの授業で取り上げた作品の中でもっとも異質だったのは「ザ・コーブ」だったように思います。
「ザ・コーブ」が他の作品と違い異質だったのは主張が何かが分かるからだったように思います。
例えば、「ヴァンダの部屋」では、同じドキュメンタリー作品でありながら何を主張したくて作られているのかは理解できない部分があるように思う。
「ヴァンダの部屋」では、ヴァンダを通したスラム街が描かれてあるが、その背景である政治的なものとヴァンダの生活の関係は描かれていない。描かれているのはヴァンダの身の回りのことや細密画のような生活の細部、カメラとヴァンダ、町の人との距離感だ。それは当たり前のことだがすごくリアルに感じる。このリアルとは何だろう?と思う。
ヴァンダは結局、部屋を出て行くことになるが、それはヴァンダにとっては不条理なことだろうと思うが、画面を見ている僕も不条理だなーと思う。なぜ出て行くのかが分からないわけではない。ただ、不条理でリアルだなーと思う。このリアルとは何だろ?と思う。このリアルによって自分は何を得ているのだろうかそこが「ザ・コーブ」と違い不明瞭なのだ。
あるいは「ザ・コーブ」は他の作品と違い私はリアルに感じなかった。とも思う。
それは「ザ・コーブ」の場合結論が何か分かる以前に見る前にすでに結論が分かっていて、それを確認する作業をしている気になったからだ。つまり、「ザ・コーブ」は元イルカ調教師の演説を聴かされる気分になりそれ以外の内容がみえてこないところがリアルではないように思えた。
こんな感じで1年間出たり出なかったりでニュードキュメンタリーをしてみて思うのは、ドキュメンタリーとは過程を見ることなのではないかと思う。
それはドキュメンタリー作品に限らず例えば「パリテキサス」や「気狂いピエロ」は過程を描いているのではないかと思う。思い違いかもしれない。
そういう風に考えるとニュードキュメンタリーで一番リアルドキュメンタリーだったのはこの授業そのものだったのではないかと思う。(そう前々から思っていた人もかなりいると思うが)
毎週決まった時間にドキュメンタリーの話をしよう。話題は毎回違っていてドキュメンタリーと関係ないときもあるし映像流れてるから言いにくいこともある。でもドキュメンタリーについて考えているというドキュメンタリー。その先に結論は生まれなかった。だって結論が生まれたらリアルじゃないしニュードキュメンタリーでもない。とりあず今、思うことをそれが僕のニュードキュメンタリーでした。

佐藤 慎吾

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