2011年1月31日月曜日

最終報告


「ドキュメンタリー」
この文字記号が示す意味すらわからず、授業に参加しました。



もともとロジカルな思考からデザインを考えていた自分にとって
この授業は、はじめ全く意味がわかりませんでした。

それは、「ドキュメント」という事柄に関して
今まで一度も向き合ったことがなかったからです。
また、美術制作をしている方々の芯にある制作意図や概念に
直に触れたことがなかったからです。


写真や映像作品を通して行ったディスカッションは
自分にとって全く考えたことのなかった領域であり
とても遠く感じ
その意味を理解することに精一杯でした。

同時に皆さんの意識の深さに驚愕し
目の前に広がる風景に
感覚的な同意をしているだけでした。

そこに自分の意見など発生するような隙もなく
ただただ翻弄されていたように思います。


今住んでいる現実世界から
未知の領域、仮想世界へ入り込む時間。
そんな授業時間でした。


こうして一年間の授業に対する考えを書こうとも
未だ抽象的な事柄しか出てこないのが事実です。

ただこうして
結論の出ない考えを巡らすことが
大切なことなんだと思います。



武藤





プロジェクト最終報告






 最初に、1月30日に間に合わなくて申し訳ありませんでした。






 以下、最終報告です。



 私にとってニュードキュメンタリーの授業は、今まで自分が避けてきた事に向き合えた授業でした。



それは、他者の作品について意見を述べたり、深く考察する事、もしくはその作品に対して自分がどんな立場にいるのかを考えることです。



 それまで、自分の意見を人前でちゃんと言うことが苦手なわたしは、授業内であまり積極的に発言できませんでした。ですが、他の人はみんな自分の考え方をしっかりもっていて、感じた事をすぐに言葉にできてすごいなーと思いました。そしてみんなの意見を聞いているうちに、「自分の考え方をしっかり持ちたい。」「自分の感覚を言葉にしたい。」と思う様になりました。



やはり言葉にしてみるというのはもの作りをする人にとって、とても大事な要素というか、制作とは何なのかという答えをだすのに必要な作業過程のように、いまは感じます。






 それを教えて下さったプロジェクトメンバーのみなさん、ホンマ先生、諏訪先生、柳本先生、本当にありがとうございました。









最後に、授業でみたいくつかの映像作品から影響を受けて作った作品や、なんかコレ自分の感覚に近いなーと思った作品をのっけてみます。

これは永山則夫の映像を観た後、「主人公が不在にまま物語は進み、本人のいた環境が物語を語りはじめる。」と先生が言っていた事について考えていた時に作ったものです。洋服を樹脂で固めて、中は空洞になっています。
最近思うのは、誰か人を造る時、裸だと「人間」という一つの記号になってしまう、その人自身を表すのは肉体ではなく、その人が身につけている、もしくは周囲にあるものなんじゃないかしら?と。

ヴェンダースのパリテキサスと東京画を観た後の話し合いで、「ヴェンダースは大きい作品と小さい作品を交互に撮っていて、映像をやる人には珍しい。」という話をホンマ先生がおっしゃっていました。その感覚って彫刻や絵画をやっているひとの感覚に近いんじゃないかな、と。私の制作の進め方も、ドローイングと立体を交互にやっていて、ドローイングでぐちゃぐちゃしてもやもやしたものを、そこからでてきた何かしらの答えみたいのが立体だったりするな、と。




なにやら小さくてモヤモヤしたものが、ぐちゃぐちゃと並べてあります。

ヴェンダースの東京画では、迷っている過程そのものを作品にしちゃっていいんだー!という勇気をもらえました。

2011年1月30日日曜日

プロジェクト最終報告

一年間の授業を通じて私が気付いた事は、私が「言葉」と「映像」の間で揺れ動いていたという事です。

授業で様々な映像を見る度に、記憶力の悪い私は「言葉」を忘れて、映像を純粋に楽しもうとしていました。「映像」の中に「言葉」を見付ける、つまり映像を読み解こうとする事は、映像を理解しようと努める事で、映像を楽しむ事とは少し意味合いが違うかな?と思っていました。

しかしながら授業を受けて思った事は、演出や編集といった映像の意味付けによって映像を一つの方向に見せようとする行為と、観客が映像の中に作者の意図や映像的な偶然性を見つけて、行間を読もうとする行為とが結びついているのだろうか?という事です。

私の専攻分野である写真にこの問題を置き換えると、「言葉」は作者と私とを近づけるツールですが、と同時に「映像」=カメラと私との間には、私が映像の対象に手を触れる事が出来ないという絶対的な距離があると思います。映像は言葉では表わし得ない物ですが、私は映像を理解しようとする際に、「言葉」と言う手段を使います。映像は現実を写し取りますが、現実では無い為です。私は「言葉」によって私と映像との間に横たわる隔たり、映像が架空や虚構であるという現実を乗り越えようとします。つまり映像は表現・伝達の手段であり、言葉は映像が実体としてあって初めて存在出来るので、「言葉」と「映像」は結びついていると考えています。

最後に一年間お世話になりました。どうもありがとうございました。

大橋 玄

2011年1月26日水曜日

最終レポート ニュードキュメンタリー・ドキュメンタリー

ニュードキュメンタリーの授業で取り上げた作品の中でもっとも異質だったのは「ザ・コーブ」だったように思います。
「ザ・コーブ」が他の作品と違い異質だったのは主張が何かが分かるからだったように思います。
例えば、「ヴァンダの部屋」では、同じドキュメンタリー作品でありながら何を主張したくて作られているのかは理解できない部分があるように思う。
「ヴァンダの部屋」では、ヴァンダを通したスラム街が描かれてあるが、その背景である政治的なものとヴァンダの生活の関係は描かれていない。描かれているのはヴァンダの身の回りのことや細密画のような生活の細部、カメラとヴァンダ、町の人との距離感だ。それは当たり前のことだがすごくリアルに感じる。このリアルとは何だろう?と思う。
ヴァンダは結局、部屋を出て行くことになるが、それはヴァンダにとっては不条理なことだろうと思うが、画面を見ている僕も不条理だなーと思う。なぜ出て行くのかが分からないわけではない。ただ、不条理でリアルだなーと思う。このリアルとは何だろ?と思う。このリアルによって自分は何を得ているのだろうかそこが「ザ・コーブ」と違い不明瞭なのだ。
あるいは「ザ・コーブ」は他の作品と違い私はリアルに感じなかった。とも思う。
それは「ザ・コーブ」の場合結論が何か分かる以前に見る前にすでに結論が分かっていて、それを確認する作業をしている気になったからだ。つまり、「ザ・コーブ」は元イルカ調教師の演説を聴かされる気分になりそれ以外の内容がみえてこないところがリアルではないように思えた。
こんな感じで1年間出たり出なかったりでニュードキュメンタリーをしてみて思うのは、ドキュメンタリーとは過程を見ることなのではないかと思う。
それはドキュメンタリー作品に限らず例えば「パリテキサス」や「気狂いピエロ」は過程を描いているのではないかと思う。思い違いかもしれない。
そういう風に考えるとニュードキュメンタリーで一番リアルドキュメンタリーだったのはこの授業そのものだったのではないかと思う。(そう前々から思っていた人もかなりいると思うが)
毎週決まった時間にドキュメンタリーの話をしよう。話題は毎回違っていてドキュメンタリーと関係ないときもあるし映像流れてるから言いにくいこともある。でもドキュメンタリーについて考えているというドキュメンタリー。その先に結論は生まれなかった。だって結論が生まれたらリアルじゃないしニュードキュメンタリーでもない。とりあず今、思うことをそれが僕のニュードキュメンタリーでした。

佐藤 慎吾

2011年1月20日木曜日

プロジェクト最終報告

1回目の授業で何か違和感を感じ、それからというもの火曜日の5、6限は憂鬱な時間となった。写真や映画の歴史、映像は初めて見るものばかりでそれ自体は面いもっと見たい知りたい、ただ目の前で繰り広げられるリアルタイムドキュメンタリーが受け入れられなかった。
日に日に募る憂鬱、深まるリアルドキュメンタリー。『もう、無理だ。』そう思った。
しかし、ある瞬間それは変わったスイッチが切り替わるみたいに。
そう、それ面白くなってしまった。
たぶん憂鬱が限界値を超えてあるところで笑いに転じてしまったんだろう。よくあることだ。
それからというもの残り数回となった授業は映像に集中でき楽しめた。(パリテキサス)は役者が役者超えし、昼夜の光の使い分け色彩が美しく本当に良かったと思ったのでその後ヴィム・ヴェンダースの映像をいくつか見た、(都会のアリス)は中でも好きだ。『写真家は自分の見た映像に絶対の自信があるからシャッターを切る』こんな内容のセリフが妙に脳みそに残る。いけ好かないが魅力的な言葉だ。
小津 安二郎という人も初めて知った。最近見た映画『珈琲時光』も小津 安二郎『東京物語』のオマージュであることに気がつき画面に向かって何となく拍手。面白いものが分かる人には面白いものが作れるのだと思う。クリス・マイケル『サンソレイユ』の映像も白昼夢に流れる音楽のようで面白かった。
知らない世界を知ることは楽しいしもっと早くから集中できれば良かったのにと今更思うが、途中で止めなかっただけ良かったと思う。そして奇しくもプロジェクト名どうりリアルドキュメンタリーが繰り広げられた火曜日5、6限は大変貴重な時間でした。

はたしてこの先リアルドキュメンタリーはつづくのだろうか?
つづくといいね。

青木真莉子




2011年1月18日火曜日

プロジェクト最終報告の件

みなさん、1年間お疲れさまでした。最終授業はみな展示準備などで忙しかったようで、メンバーが少なかったため、授業の連絡事項を投稿します。月末までに各自1年間の授業を通じて感じたこと、議論したことに対するレスポンスをブログにアップしてください。自身の作品などと絡めて画像をアップしていただいても構いません。動画でもOKです。1月30日を締め切りとします。報告がアップされないと成績評価が出来ませんので、よろしくお願いします。入試期間終了後にメンバーで集まって反省会(飲み会)をしたいねと話しています。また連絡します。
現在金沢21世紀美術館にてホンマタカシ先生の「ニュードキュメンタリー展」が開催されています。春休み少しお金と時間に余裕ある人は、金沢まで足を伸ばしてみては?



それからUSTで授業を視聴してくださった方、ありがとうございました。授業はまた来年も継続します。